素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

この世界の片隅に 後編

  


  
   〔情報量の変容・対位法〕

     「シン・ゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」、昨年の大ヒット3作品に共通す
    るものは何だろうか?
     それぞれ全く違う世界を描いているようで圧倒的情報量という点で共通している。
     (と言いつつ、「君の名は。」はいまだに観ていない“ 非国民 ”ではあるが。
      監督・新海 誠が自作は情報量にもの言わせたと言っているのだから間違いある
      まい)

     「シン・ゴジラ」については既に述べた通りだが、「この世界の片隅に」は違うのではな
    いのか?「シン・ゴジラ」が煮えたぎるような情報の沸騰を描いているのに対して「この
    世界の片隅に」は時代設定もさることながら、水彩画、日本画?のようなタッチで情報量
    など微塵も感じられないかのようである。
     片淵須直監督は風化しつつある戦前・戦中の記憶を後世に残すべく、当時の人々の
    生活、風俗、町並み、自然等々を徹底取材して背景の看板のレタリング、行き交う人々
    衣装の細部に到るまで精緻に描きこんだ。画面のタッチではわからないが、背後には
    膨大な情報量が沈み込んでいる。

     人々はなぜ、ディズニーランドに行きたがるかと言うと、現実の街並みがどんどん人工
    的空間に変貌をとげつつある昨今、キッチュとさせ言えるディズニーランドの人工的空間
    に身を置くことによって却って安心感が得られるからだと説明される。
     私は変わっているのか、うっとうしい程の情報の洪水である「シン・ゴジラ」の世界に
    むしろ“ 居場所 ”を感じるのだ。
     「この世界の片隅に」は一見、全く「情報」というものを感じさせないが、「情報」、正確
    には「情報量」が本作を説話論的に読み解くキーワードだということを押させておこう。

     宮崎 駿にしろ押井 守にせよ「巨匠」と呼ばれる人の映画は「美術」(映画の場合、
    セット、アニメの場合、背景をいう)、「情報量」の映画となるものです。
     実写でも「巨匠」と呼ばれる人の作品は同様の傾向が伺えるし、今日、優れた作家の
    作品は「情報量」がものをいう。AKB48だって、あれだけの人数が踊るのだから「情報
    量」に換算したら圧倒的なものとなる。
     
     本作の特異な点は、突如として「情報量」が変容することが挙げられるだろう。
     鉛筆、クレヨン?で描かれてすずさんの絵がアニメの原画のようにインサートされたり、
    格子の中で彼女の絵が絵コンテのように浮かんでは消えたり、インサートされたすずさ
    んの絵の中に彼女らが逆い吸いこまれたりする。
     これらはすべて様式のアクセントに過ぎないのかというとどうもそうではないことにやが
    て気づくのであります。
     すずさんが描く素描はラフタッチであり、もちろんそれはそれでいいのだが、これらを
    「情報量」に換算するとどうなるのか?
     デジカメの画像処理能力ではないが、地の文章のアニメーションに比べれば、インサ
    ートされるすずさんの絵の画素数は明らかに落ちる。この情報量(画素数)の変容こそ
    この映画の魅力、秘密ではないかと一晩考えて結論づけた。
     くり返される「情報量」の変容は単なる様式のアクセントではなく、いわばつまり説話
    論的伏線だといえよう。どういうことかと言うと、「ウエストサイドストーリー」のオープニ
    ング、CADで設計図描いているようにアットランダムにキャンバスのような画面に直線
    が引かれる。かなり長いこと直線が引かれ、何のことやらと思った頃、これらがNYの
    摩天楼の外形線をなぞったものだと明らかになる。次の画面では、カメラは地上に降り
    てきてバスケットコートとかで俳優たちがいかにも様式的な動きをする。いかにミュージ
    カルとはいえ、いきなりこんな傾(かぶ)いた動きされたら笑ってしまうのだ。冒頭のア
    ブストラクトなシーンが延々と続くからこそこの不自然なアクションにも入っていけるの
    だ。これと同様、すずさんの絵のインサートの繰り返しははクライマックスのための説
    話論的伏線だ。

     さて、コトリンゴの「悲しくてやりきれない」で始まる本作は「対位法」の映画だと容
    易に推察されよう。ここでいう「対位法」とは音楽用語ではなく、映画用語であります。
     黒澤 明やスタンリー・キューブリックが得意とした画面と音楽の「対位法」だ。
     (もっとも武満 徹氏はこの映画の「対位法」に異論を唱えているが、とりあえず、
      今回はこれを「対位法」と呼ばせてもらいます。)
      
     例えば「野良犬」の終盤、犯人(木村 功)と刑事(三船敏郎)が対峙する緊迫した
    シーンの背後では郊外の一軒家でピアノの練習曲がのんきに流れていた。
     音楽ではないが、「生きる」で主人公役の志村 喬がガンで余命幾ばくもない境遇
    で落ち込んでいる時、背後ではうら若き乙女たちが「キャ、キャ」と嬌声をあげていた。
     「時計仕掛けのオレンジ」でアレックスがレイプしながら歌うのはミュージカルナン
    バー「雨に歌えば」であった。これらはすべて画面と音楽(音)の対位法だ。

     本作のクライマックスの一つ、すずさんが地中の時限爆弾でつれていた晴美と自分
    の右腕を失ってしまうシーンでは一瞬、画面が暗転する。つまり、「情報量」は急速に
    低減する。この暗転画面ですずさんの素描のようなタッチの絵で何が起こったかすべ
    てが語られる。このシーンは重要なシーンであるにも拘らず急激に低減した「情報量」
    で描かれるのだ。私は映画技法研究家ではないのでこれを何と呼んだら正確かわか
    らないが、これはドラマと画面の対位法ではないか。
     その昔、NHK教育テレビ(今のEテレ)で黒澤 明が自身の創作技法を自作動画つ
    きで解説していた。 黒澤曰く「何でみんな肝心なシーンで寄りたがるかね。僕は肝心
    なシーンは逆に思いっきり引くけどね」「酔いどれ天使」の有名なペンキまみれの格闘
    シーンへの導入部を思い出してもらいたい。廊下から部屋のドアを開ける際、思いっき
    り引いた縦構図の廊下の画面がインサートされる。このシーンを見せながら黒澤は説
    明していた。
     「この世界の片隅に」ですずさんが右腕を爆弾で飛ばされるシーンが、私にはこの
    「酔いどれ天使」の引いた画面に似てるまで言わないが、通じるものがあると思える。
 
     すざさんが右腕を失ってからはさらに手のこんだ「対位法」が使われる。
     右腕を失ってもしばらくは「ええんじゃよ」の精神で平静を装っていたすずさんが、突如
    として感情を露わにするシーンは画面がクレヨン、油絵?のように変わりこれまた急速に
    「情報量」(画素数)が低減する。ここまではドラマと画面の情報量による「体位法」なの
    だが、この後ナレーションがかぶってくると事態はさらに変容する。「右腕があれば何が
    出来たか」を次々とナレーションでかぶせるとドリーバックズームインのような錯覚を覚
    えるのだ。

     私が知る限り、ドラマと画面の「情報量」による対位法や、画面とナレーションによる
    ドリーバックズームイン類似の効果に挑んだ映画は本作が初めてであります。
     本作の「ええんじゃよ」の精神に満ちた「美しき日本」とのん演じるすずさんのキャラ
    クターに魅せられ、これら新基軸の映画技法に心揺さぶられた人々が「この世界の片
    隅に」をベストワンに選んだのだと思う。

     「シン・ゴジラ」で述べたことを一部、訂正しないといけない。
     私は「この世界の片隅に」でも2度、鳥肌が立った。
     すずさんが右腕を失う爆弾のシーンとラストに到る終盤のシーンだ。

     でも、「シン・ゴジラ」が私の昨年度ベストワンであることは変わらない。
     その理由は「シン・ゴジラ」で述べた通りです。

                                    (了)



            
     もはやアニメ監督ほど映画をコントロール仕切る、若しくはこだわり抜く
     実写映画監督は日本にはいないのではないかと最近、思うのです。











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この世界の片隅に 前編

     



     多くの人が既に観たであろうこの映画をようやく観れました。 
     いつぞやいきつけのバーに行った際もマスター、常連客、入れ替わり入ってくる客もみ
    んなこの映画の話題で持ち切りで未見の私は一人蚊帳の外でした。

                                    以下、ネタばれを含みます。



    〔ええんじゃよ、ええんじゃよ〕~ かつて美しかった日本~

     「聖地巡礼」なんて言葉が昨年の流行語大賞にノミネートされた。
     アニメ、ドラマのロケ地を訪ねることを言うのだが、この映画の舞台、広島、呉とは少し
    ロケーションがずれるのだが、瀬戸内海沿岸の広島県の街というと、大林宣彦監督の
    尾道3部作が思いだされる。特に「時をかける少女」は角川映画特集をやれば必ずリス
    トアップされる1本だ。本作がデビュー作の原田知世がジュブナイルの世界を見事に体
    現していると誰もが認めるだろう。
     リアルタイムで観た時は気づかなかったが、再見してみて気づかされるのはジュブナ
    イルの世界のベースになっているのは尾道という瀬戸内海の街の持つゆるやかでたお
    やかな世界だということだ。これを最も体現しているのは上原 謙、入江たか子の2人
    が演じる老夫婦だろう。大林監督はジュブナイルの世界と共に尾道の持つこのゆるや
    かでたおやかな世界をフィルムに定着させたかったのだと思う。

     随分とまわり道したが、「この世界の片隅に」で忘れてはならないのは、広島、呉とい
    う瀬戸内海の街のゆるやかでたおやかな世界が基本のトーンだということだ。
     公開時、「時をかける少女」のゆるやかでたおやかな世界に気づかなかったのは、私
    が若かったせいもあるが、あの当時はまだどこかでゆるやかさやたおやかさが残って
    いたからだ。今や都会ではこれらはほとんど残っておらず、せわしなく、ぎすぎすした世
    界に変貌してしまった。 
     本作の魅力は、のんが声優つとめるすずさんのキャラクターによることは言うまでもな
    いが、すずさんが許容されるのはゆるやかでたおやかな世界がベースとなっているか
    らだ。
     残念ながら、おそらく現代においてはすずさんのようなキャラクターはいじめられる存
    在だと思う。


     広島というと最低もう1本、忘れ難い映画があげられる。
     もちろん、小津安二郎監督の「東京物語」だ。
     広島から状況した笠 智衆、東山千栄子演じる老夫婦が長男夫婦、長女夫妻にじゃけ
    んにされ、結局、一番親身になってくれるのは原 節子演じる戦死した次男の嫁・紀子
    だったというストーリーだ。そんな紀子に笠 智衆が感謝の言葉を述べると、紀子は
    「私、そんないい人じゃないんです。戦死した夫のことも忘れてしまうこともあるんです」と
    答える。
     これを受けて淡々と笠 智衆が「ええんじゃよ、ええんじゃよ」と返す。
     この「ええんじゃよ」という言葉には、ゆるやかさとたおやかさをベースに艱難辛苦をの
    り越えた先の許しと寛容と達観が満ちていると思う。
     「この世界の片隅に」の登場人物はゆやかでたおやかな世界に生きているだけではな
    く、貧乏、不幸、戦争の影を「ええんじゃよ」の精神でやり過ごしているように思える。
     食うものがなくても、つらくても、戦争に息子とられようと、すずさんのように爆弾に右腕
    をもがれようとも。
     すずさんの義姉・径子さんのように娘・晴美を失って感情を露わにしても、結局は「ええ
    んじゃよ」の精神に落ち着く。現代ならそんな簡単には済まないだろう。
     彼らはみな、不幸、不遇、貧乏に不平・不満言うこともなく、許しと寛容の精神に満ちた
    「ええんじゃよ」を胸につつましくもけなげに生きているように思える。  
     これらはすべて現代日本には存在していないものだ。
     幕末、明治、大正、昭和(戦前)と日本を訪れた外国人の多くがその美しい風土に心奪
    われたと共に貧しくも「美しい日本人」に驚嘆した。

     かつて、日本は美しかった。

     戦前、戦中を知らなくても、我々は遺伝子レベルでこれを知っている。
     だからみんなこの映画に魅かれるのだ。

                                            (つづく)




     
     すずさんの親世代がやがて「東京物語」の笠 智衆、東山千栄子夫妻となり、
     すずさんの義姉・径子世代が「時をかける少女」の上原 謙、入江たか子夫妻
     となっていくだろう。 










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UCLA映画テレビアーカイブ 後編

   



    【わが心のジミー・ディーン】 ロバート・アルトマン監督 ~ 日本劇場未公開~

     いなたいアメ車は、我々を50年代アメリカ、映画「ジャイアンツ」の舞台、テキサスに連
    れていく。この映画はテキサスの片田舎で結成されたジェームス・ディーンファンクラブ
    の女性が再会するストーリーだ。
     当時、高校生だった彼女たちの溜まり場の雑貨店だけで物語は進行していく。
     原作が舞台なので、当然、そうなるかのようだが、それは舞台の映画化を口実とした
    監督・アルトマンの映画的欲望に他ならないだろう。
     昨今もワンシチュエーションドラマは、結構、作られているが古くはヒッチコックも「救命
    艇」で試みていることであり、才人・アルトマンもチャレンジしてみたかったのではない
    か?
     同窓会映画は、みんなで旧交温めるだけでは映画にならないのだ。
     必ず異化された「他人」が紛れこまないといけない。
     例えば、ケネス・ブラウナー監督「ピーターズ・フレンズ」がこれにあたり、オックスフォー
    ド・ケンブリッジ卒のエリートの同窓生に交じって、その連れ合いである非エリートが波風
    立てるように。この映画も同様で性転換した彼女(元男性)がさざ波だった同級生の軋轢
    を大時化(おおしけ)の海へと変える。このおネェによって何十年来の真実、すなわち、
    ジェームス・ディーンの子供を宿したと言う同級生のウソが明らかになる。
     今秋、大学の同窓会に行ってきたが、語りあっているうちに30数年来の真実の開示が
    ありました。男も女も自分に都合のいいこといってますな~(苦笑い)。
     
     1度は観たいが(後味悪いことこのうえないことから)もう1度は観たくない、傑作「3人
    の女」ほどではないが、アルトマンの演出、カメラワークは冴えている。
     でも、作劇の建てつけは「ピーターズ・フレンズ」の方が凝っている。エリートの連れ合
    いの非エリートよりさらに異化された人物がこの同窓会の主催者ピーターであると終盤、
    明らかになるからだ。イギリスのエリートらしく、劇中、彼はバイセクシャルであることを
    公言して憚らないが、実は自分はHIVポジティブであるから皆を集めたんだと告白する。
     あんこは砂糖だけでなく塩を入れた方が甘くなる。旧交温めるお膳立てでもさざ波が立
    ち排斥力が働くがピーターの一言でこの排斥力はぐるんとひっくり返り吸着力として作用
    し、やっぱり同級生っていいよねで終わる。そう書きつつ、いや、待てよ、ベクトルこそ真
    逆であるが、アルトマンも負けていない。いがみ合うが何のかんのいってジェームス・
    ディーンファンクラブの溜まり場だったこの雑貨店があってのことだ。この再会から何年
    後の今や蜘蛛の巣だらけの廃墟となった雑貨店がラストに映し出される。
     みんなが陽気に笑っているハリウッドで一人冷笑しているアルトマンの面目躍如です。

     トランプはこのさびれた街も立て直せるかのか?


    行列
             私の観た4本はすべて長蛇の行列だった。


     
    【ザ・コネクション】 シャーリー・クラーク監督  ~日本劇場未公開~

     これもワンシュチュエーション映画だ。ジャンキーとかろくでなしの溜まり場のNYのア
    パートで繰り広げられる群像劇。このろくでなしのドキュメンタリーを撮る撮影クルーをさ
    らに撮影するドキュメンタリーもどきの映画。
     それにしてもこのやらせドキュメンタリー調のあざとさはどうしたことだ。
     やはり欧米ではロバート・フラハティーのドキュメンタリー論が幅を利かせているのかと
    思っていたら、やっぱりだ、監督らしい人物が「俺はロバート・フラハティーとエイゼンシュ
    タインに影響されている」と語る。
     (ロバート・フラハティーとはドキュメンタリーも演出があっていいと言う人です。演出と
      やらせの境界は曖昧だが。)

     まあ~、それにしてもNY、ジャンキー、ジャズ、即興、ドキュメンタリーと要素を集めて
    「さあ~、どうだ」と言わんばかりのあざとさと悪い意味での紋切り型はどうしてくれよう。
     確か「人間蒸発」に対してだったと記憶しているが、かつて大島 渚が今村 昌平を
    揶揄して「10年遅れたドキュメンタリー」と言ったことがある。
     ドキュメンタリーも進化しているのだ。多くのジャンル映画が滅びたとしてもドキュメン
    タリーは進化してしぶとく生き残ると思う。
     いまだ未見だが21世紀のドキュメンタリー作家、松江 哲明監督作が急に観たくなっ
    た。

     この映画は「アーカイブ」されるだけの映画で完全に過去のものだと思う。

     トランプはジャンキーや麻薬売人らを徹底的に取り締まるようだからこういう群像劇は
    観られなくなるかもしれない。



    【ミッキーワン】  アーサー・ペン監督  ~日本劇場未公開~  

     パンフには「古典的な話法を否定して撮った実験作」となっている。
     確かに今日、「描写」については進化したかもしれないが、「話法」についてはとんと無
    頓着になっている。そういう今日的視座に立てば「実験作」ということになるのかもしれな
    いが、これはフェリーニに影響受けた作品だ。冒頭のワンカツト観ただけですぐわかっ
    た。
     「8 1/2」(1963年)は本作公開の2年前、この映画が当時どれほど映画界に影響
    を及ぼしたか本作を観るとよくわかる。


    ミッキーワン
                  これがファーストカットです。


     黒澤組の常連、藤原鎌足が前衛芸術家役で出演している。
     ハードボイルドには必ずといっていいほどチャイナタウン、中国人が出てくる。
     こなれているのではなくすんなり消化しきれなさを残すハードボイルドなのだから西欧
    人から観たら東洋の不可解な存在としての中国人がお似合いなのか。
     この芸術家は屋外で巨大な機械仕掛けのアート作品を展示するのだが、 不具合で
    出火して消防車が駆け付けあたり一面が泡だらけとなる。屋外のオープンセットを使っ
    て展開される本編とは一見、何の関係もない逸脱。こういうシナリオ構成はフェリーニだ
    ろう。
     ハードボイルドには不可解な中国人なら、フェリーニ的幻想にはいつもニコニコしてい
    る妖精のような日本人がお似合いというわけか。

     「8 1/2」は新作がなかなか撮れない、煮詰まった映画監督グイドのストーリーだ。
     彼は新作撮らなければいけないという強迫観念に実はかられている。フェリーニが撮
    ると一見、そうは観えないが。強迫観念に捉われているからこそ様々の幻想が湧きあ
    がる。
     表象的類似点だけでなく実はこの映画の主人公のスタンダップコメディアン(ウォーレ
    ン・ビイティー)も強迫観念に捉われている。腕はあるが興業主ともめてしまったことから
    “ 逃亡者 ” となり名前を変え職を変えて身を隠していたが、昔とって杵柄でコメディアン
    を再開するとすぐ頭角を現し、メジャーどころからスカウトがくる。自分は狙われている、
    殺されるという強迫観念に捉われているが故に何とか口実を作ってオーディションから
    逃げようとするのだが・・・・。
     逃げまどう人という主題論的系統は「俺たちには明日はない」に受け継がれる。
     とうとうオーデイションの舞台に上がるはめになったコメディアンはスポットライト浴びせ
    られながら狼狽する。カーテンで仕切られた舞台2階の奥から彼を品定めする人物は誰
    なのか?
     これは最後まではっきしない。どこからともなく雨あられのように銃弾が飛んできて壮
    絶な最期をとげる「俺たちには明日はない」のボニー。ここでも銃弾あびせた人物ははっ
    きりとしない。

     アートぽさとエンタメがマリアージュした映画で現代でいうとコーエン兄弟がものすタイ
    プの映画かもしれない。音楽はスタン・ゲッツがフィチャーされいる。本作を私は十分堪
    能したが、「8 1/2」(63年)といい、「ゲッツ/ジルベルト」(64年)といい、当時一
    世風靡したものを小器用に取り入れちゃうあたりにアーサー・ペンのその後が見てとれ
    るとも言える。

     現代にリメイクしてもいいかとも一瞬、思ったが「監視」が当たり前の現代ではアカン
    か。
  
     トランプさん、「America Great Again」なら「監視」も止めてもらえませんか?

                                              (了)




 
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UCLA映画テレビアーカイブ  前編

   


 
    映画は何本か観ていて記事にしようかとも思ったのだが、「悪くはないのだけど・・・」で筆
   が止まってしまい、トランプ関連記事に埋もれてしまった。
    新作がイマイチなら旧作を求めて何年かぶりに国立近代美術館フィルムセンターへ足を
   運ぶ。「UCLA映画テレビアーカイブ 復元映画」コレクションというが、4Kデジタルリマス
   ターとかではないようだ。日本未公開作品や散逸したフィルムの収集とかテクニカラーの
   復元につとめたそうだ。



         UCLA映画テレビ




   【7人の無頼漢】 バッド・ベティカー監督

 
    古典的な西部劇で西部劇ファンならマストの1本だ。
    私は日本の時代劇なら好きなのだが、西部劇はそれほどでもなくお恥ずかしながら今回
   初めて観た。
    私の独断かもしれんが、数学、論理学、哲学を専らとする人には西部劇好きが多いよう
   に思えてならない。高校の数学の教師がそうだったし、大学の後輩の哲学青年もまたしか
   りであるうえに私の記憶が確かならば、かの哲学者、ヴィットゲンシュタインの数少ない娯
   楽が西部劇を観ることだった。
    古典的西部劇にも例外があるが、基本、西部劇は実に明晰な文体で描かれる。
    さらに必ずといっていいほど決闘でカタがつく、結果が出るのです。
    しかも時代劇と違い刀を合わせるひまはなく、多くは一撃で決まる。
    これが方程式を解くがごとくのカタルシスにつながるから彼ら数学者、哲学者は西部劇
   に魅かれるのだろうか?
    かつて小津安二郎は山中貞雄に対して「そうか、君は数学が得意なのか、だからシナリ
   オがうまいんだね」と語ったと伝えられる。今日のようにこねくり回したシナリオではなく、
   自然界の法則を数式で表し、これを展開していくが如く「映画言語」を紡いでいくシナリオ
   が名シナリオなのだろう。

    さて、本作は妻を強盗団に殺された元保安官(ランドルフ・スコット)の復讐譚です。
    言ってしまえば至極単純な映画で、当然、“ 西部劇のお約束 ” で終わる。
    ところが、断然、これが素晴らしいのだ。
    ボツとなった最近観た映画2本とは西川美和「永い言い訳」、黒沢 清「ダゲレオタイプ
   の女」で、もちろん、作品、演出の出来栄えは今日の日本映画の水準以上であり両作品
   共にベストテンに入るだろう。(「ダゲレオタイプの女」は日仏合作であり邦画・洋画いずれ
   に入るかわからないが)
    でも、両作品共にどうもラストが気に入らない。西部劇の明晰さと真逆の韜晦と曖昧さの
   文体で描かれているが、さりとてラストで観客を置き去りに程のするミスティフィケーション
   はなく、「さもありなん」という結末を向かえる。突き離すだけのキレと勇気がない。
    西川美和の「デイアドクター」の終盤はキレと勇気の連続だった。あのラストは「さもあり
   なん」とはならない。三振とりに行く決め球がど真ん中のストレートだったら、これは勇気あ
   る行為以外の何物でもあるまい。あのラストはど真ん中にストレート投げたのだ。
    「ダゲレオタイプの女」は写真に心奪われて魂吸いとられるようなホラーストーリーだが、
   あのラストなら同じような写真に心奪われるストーリーで比較すると一発芸のようでもマノ
   エル・ド・オリビエラが102歳で撮った「アンジェリカの微笑み」の方が勇気あるぞ。
    野球の代わりにサッカーに例えるなら、本田圭祐選手がPKでど真ん中にシュートするよ
   うな勇気ある行為だ。
    彼は何のテクニックもないからど真ん中にシュートするのだろうか?
    もう敵チームも彼が絢爛たるテクニックを持っていると承知していることを前提とした敵ゴ
   ールキーパーとの心理戦だ。
     映画「7人の無頼漢」に見られる紋切り型の物語の要諦は、今日のこれ見よがしなテ
   クニックを底に沈めど真ん中にPKシュート決めることではないか。
    そういう物語にはアンドレ・パザンが語ったというこの言説がぴったりだ。
    「もっとも単純にしてもっとも美しい西部劇」
    
    この映画のPKキッカーは、ランドルフ・スコットではなく、リー・マービンだ。
    今さらながらだが、彼はホントに素晴らしい役者だ。
    何気に登場し、いつの間にか彼の空気・磁場を作りだすのだが、さりとて彼自身も役柄
   も際立たせてしまうことがない、今日、見つけずらい存在感だ。
    かつてなら日本映画にも彼みたいな役者はいた。原田芳男だ。
    今日は役者も役柄自身も際立たせようとばかりしている。キャラが立つとか言っていいと
   思っているのだろう。主役はそれでもよくてもみんなでそれやり始めたらシラけることこの
   上ないのだ。


                リーマーヴィン 攻撃
                 こちらは「攻撃」のリー・マービン


    ど真ん中にボール蹴る前のPKキッカーとGKとの心理戦、スリルを本作で体現させるた
   めの前ふりは、へなちょこ男とその妻、ランドルフ・スコットとリー・マービンが幌馬車の中
   で繰り広げる会話だ。本田圭祐がどんなシュートするのか、スルーパスするのか、ドリブ
   ルするのか、シュート打つ選手のためのくさびになるのか、パス受けるふりして流して隣
   の見方にパスさせるのか、これらを敵方GKに印象づけるからこそ、まさかど真ん中に
   シュートしてこないと思わせるのだ。この幌馬車のシーンがこれらに該当する。
    リーマーヴィンは敵なのか味方なのか、何を仕出かすかわからない、それとも悪行の限
   りをつくして悔い改めたのか、このあたりは人生の年輪を重ねれれば重ねただけ見方が
   変わってくるだろう。
    このへなちょこ男夫婦の旅の目的が明きらかにされる頃、避けることのできない運命が
   交錯し始める。

    紋切り型(ど真ん中にシュートすること)は、シナリオ、役者、監督の“ 芸 ”があって初め
   て可能となる。紋切り型はポストモダンの時代、パロディーの対象となり空洞化して笑いへ
   と転化した。

    「パロディー」、「様式美」、「ハイブリッド」、「過剰」を経て21世紀の紋切り型は可能なの
   か?
    それはどんなものとなるのか、そう思わせる1本でありました。

                                           (つづく)


   

   いなたいトラック
    帰り道、40年代?50年代?のいなたいアメ車を見かけた。
    こういうことが私はタマにあるのです。「世にも怪奇な物語」を
    レイトショーで友人2人と観た際、「円タク」のような古めかしい
    タクシーがやってきた。異界へと連れていかれそうな「円タク」
    に我々は吸い込まれるように乗り込んだ。
    このアメ車はどこへ連れていってくれるのだろう。










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小林よしのり 「 シン・ゴジラ批判 」 に反論す。 後編

    



    それにしても「シン・ゴジラ」を巡る言説は賛否両論ともにあまりにもペラい。
    ネトウヨもどきの「一致団結してして日本を外敵から守ろうというのがテーマです」とか
   (笑い)、「『シン・ゴジラ』を批判する奴は左翼の宮崎 駿でも見てろ!」とか(苦笑い)。
    そうでもなければ庵野 ⇒ 「エヴァンゲリオン」、オタクという先入観か、その回りを
   空中旋回するのとか、それを斜め横から見てひっくり返すとか、・・・・その程度。

    これは「シン・ゴジラ」に限ったことではないのかもしれない。
    先日、ある新作邦画を観に行ったのだが、その前に延々と公開予定の邦画の予告編を
   見せられて呆れた。
    邦高洋低と言われ邦画は元気があるが、総じてレベルはどんどん劣化している。
    一番多いのはうすら甘いエセヒューマニズム映画だが、原作(漫画・小説)の再現フィル
   ムのような映画、芸能人の自主映画(すなわち楽屋おち映画)等々、全く食指が動かない
   映画だらけだ。
    別に私がひねくれ者なのではなく、イギリスの映画人も明言している。

     今の日本映画にもの申す・・・「レベルが本当に低い!」
     英映画配給会社代表が苦言


     英国の映画製作・配給会社「サードウィンドウフィルムズ」代表、アダム・トレル
     氏(33)と先日話す機会があった。アダム氏は日本をはじめアジア映画を海外
     に紹介しており、現在公開中の日本映画「下衆(げす)の愛」(内田英治監督)
     のプロデューサーも務めている。

     「日本映画のレベルは本当に低い。最近すごく嫌いになってきたよ!」

     アダム氏は憤っていた。断っておくが、アダム氏は日本映画をこよなく愛している。
     だからこその“苦言”なのだろう。

                               ~ 産経ニュース ~


    製作サイドの問題もあるがペラいレビューが多いことに象徴されるように観客の劣化も
   否めない。これは黒澤 明も言っていたことで、彼が生きていた頃から続くことだからか
   れこれ20数年経つだろう。
    じわじわ劣化は進んで21世紀になってこの状況は拍車がかかった気がする。
    福島原発事故の放射能がいまだ科学的知見のない新たな病気をまき散らしたのかも
   しれない(笑い)。名付けて「ペラい病」、脳のしわが伸びきって何にも思考せず脳が空
   回りする病気。 

    ノビテル、ノビテル、石原ノビテル!

    この病気は政治家の脳にも感染しているのかもしれない。
    稲田某防衛大臣は防衛省の制服組、背広組双方から総スカンくらっているそうだ。
    そりゃそうだ。
    あんな泣きべそ大臣に命預けられないもの。
    因みに稲田某防衛大臣は防衛省では「稲田ゴジラ」と言われているそうな。
    小林よしのり氏は「核攻撃される緊迫感が伝わってこない」とか言うが、政治がこんな具
   合だから今の日本に緊迫感などないのです。

    さて本論に戻ろう。
    こう言っちゃ申し訳ないが、「シン・ゴジラ」に関して「エヴァンゲリオン」と「クレヨンしん
   ちゃん」 しかないのかい?
    (「怪獣大戦争」のテーマ曲がクレヨンしんちゃんでもかかるそうだ。)
    世の中には「歴史」というものがあるのです。
    家具も100年越えてアンティーク、100年未満はビンテージだから、「歴史」とは100年
   超のものを言うのかもしれない。映画は誕生から110年超だからぎりぎり「歴史」があると
   いうことになるのかもしれないが、映画100年は小説の200~300年に匹敵するスピー
   ドで変遷を遂げたことから相応の「歴史」があるのです。
    人に歴史あり、庵野監督も50有余年生きていれば、「エヴァンゲリオン」や「新マン(帰っ
   てきたウルトラマン)」だけじゃないのです。 
    「シン・ゴジラ」は「エヴァンゲリオン」もあるだろうが、誰がどうみても村上 龍の系譜の
   映画だ。
    
     
    アメリカでは「シン・ゴジラ」を国家主義とか言うようだが、そんな単純なものではなく政治
   家、官僚らのダメさ加減をこれでもかと描いているのであって、アメリカのマッチョな国家主
   義、愛国主義とは全く違う。肌あいはだいぶ違うが、臨時政府や民間人が敵を退治する
   様はむしろティム・バートンの「マーズアタック」に近い。あれを国家主義、愛国主義という
   かね。
    政治家、官僚らの膨大な専門用語のセリフがうざいなら、もっとセリフを詰めてこの重大
   事に到っても「官僚制」から抜け出せない「笑劇(ファルス)」として描けばよかったかもしれ
   ない。ロバート・アルトマンがよくやるように。邦画でいえば「東京原発」のテイストかな。 
    ゴジラさえ出てこなければその手があるが、ゴジラが出てきたらそうはいかない。


    「歴史」との関連を言いかけたが、ある歴史的事実を知っていればこの映画の膨大な専
   門用語の羅列は何なのか氷解する。これは私の「シン・ゴジラ論」からは漏れてしまった
   が、この映画を観ると歴史的事実といっても差し支えないだろうある言説を思い出すの
   です。

     過去も今もトップ&エリートは全部ダメ!

     ~ 菅沼光弘、北芝 健、池田整治共著 「サイバイバル・インテリジェンス」 ~


    そこまで言うかと思われるかもしれないが、元公安調査庁、元警視庁刑事、元防衛省幕
   僚が異口同音にそう言うと相応の説得力を持つのだ。
    「シン・ゴジラ」では「過去」は描かれていないが、「今」についてはこれでもかと描かれて
   いる。
    膨大な専門用語が乱れ飛び必死で政府、官僚、自衛隊が防衛作戦を展開しても結局、
   ゴジラに対して無力であることが完膚なきまでに描かれる。平泉 成演じる農水大臣上が
   りのお飾り総理大臣がこの事態を際立たせている。「トホホホ」という感じね。専門用語が
   膨大でもっともらしいほどこの脱力感は効果的だ。
    そういう意味でも防衛側を「地球防衛軍」的、若しくはハリウッドエンタメ的に整理しては
   いけないのだ。
    もっとも従前の総理も官僚も専門用語で武装しているからもっともらしく見えたのであっ
   て内実はこの農水大臣上がりの総理と変わらないのかもしれない。
    少なくない政治家が「シン・ゴジラ」を何度も観ているようだが、菅官房長官は「(シン・ゴ
   ジラは)1回見れば十分だ」と述べたそうだ。
    そりゃそうでしょ、官邸を始め政治家のダメさ加減をこれでもかと描いているのだから。

    「過去」については「夏の戦争映画」シリーズ、VOL.3でたっぷりと検証した通りです。
    小林よしのりさん、私はあなたの「戦争論」の第1巻しか戦争ものは読んだことがありま
   から、断定はしませんが、あなたの著作で「日本のトップ&エリートはダメ」という視点が
   今まであったのでしょうか?あなたの視点はその真逆で国家のために戦った美しき戦士
   ではないでしょうか?
    あなたの功績は認めます。でも、あなたのお陰で「日本のトップ&エリートはダメ」とで
   も言おうものなら、「それって、自虐史観でしょ」とうそぶくエセ保守もどきばかり量産され
   てしまいました。そんな連中は「シン・ゴジラ」観ても「一致団結してして日本を外敵から
   守ろうというのがテーマです。」とか言いだす始末。
    
    「日本軍の下士官以下は世界一。でも上に上がるに従いダメになる。」―― この歴史的
   事実を知っていたなら、「シン・ゴジラ」を観ても単純な「愛国主義」にはならない。
    トップ&エリートのダメさ加減を描きつつ、「しょうがない、我々下士官以下で何とかする
   か」という逆説的愛国心が「シン・ゴジラ」の真髄となるだろう。

    引用部分にはまだ先があるのです。

   過去も今もトップ&エリートは全部ダメ!
   この国は一般庶民たるあなたたち一人ひとりが≪主任分析官≫になるほかに道はない。

                            ~ 引用 同上 ~
 

    そういうわけで不肖、私は7年前からこのブログをやっているのです。


                                            (了)






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