素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「皆殺しの天使 」 後編




 【寓意を許さない結果主義と非寛容】

   どうだろう、昨今、寓意に富んだ映画ってあるのだろうか?
   リアリズム映画は旗色が悪いが、さりとて寓意は許されず、結果主義と非寛容が
  蔓延しているのではないか?
   具体的に述べよう。
   今日、意味もなく紳士淑女が幽閉されただけでは映画にならない。
   なぜ、閉じ込められたかは留保されたとしても様々な脱出策が講じられても脱出
  できないとしないと映画にならない。
   この説話論をとことん突き詰めると、ゲームのような映画「CUBE」だろう。
   同時に邸宅に幽閉された人々には何か因縁があるのではないか、彼らを見守る
  警察、市民はなぜ、傍観しているのか?誘拐されたと勘違いしたなら踏み込まない
  のか?
   昨今はこれらを丹念に描かないと映画にならない。
   もっと言うなら観客を呼べない。
   成功、失敗と結果が出ないと「映画と認めない、カネ返せ!」という不寛容が蔓
  延していると思います。
 
   自ら進んで幽閉を選んだブルジョア階級も傍観している警察、市民も私にはベル
  ナルド・ベルトリッチ監督「暗殺の森」ロードショー版ではカットされ完全版に収
  録された目隠ししてダラダラ踊る人々と同類に思える。
   それはどういうことなのか?
   それらは皆、ファシズム台頭への盲目、全体主義体制下での無力感、無気力とい
  うことだ。



 【綱渡りのブニェル】

  昔は、命がけの役者、芸人が居た。
  バスター・キートンの諸作を観てみるがいい。
  あれはSFX、スタントなしの仕事でまさに命がけ。
  キートンは命がけの喜劇役者だ。
  チャプリンの「独裁者」はヒトラー政権健在の時の映画だ。
  あれも命がけだろう。
  そんな昔に遡らなくても、キートンをリスペクトするジャッキー・チェンの「プロ
 ジェクトA」での落下シーンも命がけ、あのシーンで彼は頸椎の大けがをした。

  役者ばかりではない、映画監督、神代辰巳は晩年、車椅子、酸素ボンベで撮ってい
 た。
  「カントク!酸素ボンベではもう女はダメでしょう」と冷やかされると、「そんな
 ことはない、俺と女とボンベでホントに川の字になって寝るんだ(笑い)」と煙に
 まいた。

  本作を戦前の作品と勘違いした私は、「フランコ独裁時にこの映画を撮ったブニュ
 エルは凄い!」と親友 I に言った。
  すぐわかるように1962年の作品で、「やっぱ間違いだった」とついしてしまっ
 た私と親友 I を含む多くの我々、日本人は遠い国、スペインについて無知なの
 だ。
  スペイン内戦(1936年)からフランコ独裁政権は戦後を経て彼の死、197
 5年まで続いたのだ。発展途上国や共産主義国はともかく西側ヨーロッパにあ
 って戦後も独裁政権が続いた特異な国、スペイン。
  ジャン=リュック・ゴダールも20世紀を概観して「ソシアリスム」で スペイン
 内戦の始まりについてスケッチしている。

      男の声 (オフ)闘牛場でのコリーダ。         
      誰もがそこにいた、ヘミングウェイ、ドス・パソス、オーウェル。
      その後、闘牛での処刑を見てから闘牛士と観客たちは前線に向けて
      出発した。
 
                      ~ 「ソシアリスム」 パンフ ~


  1962年当時、スペインは相変わらずフランコ独裁政権だった。
  1960年に軍法と通常法の分離が行われ、軍部が警察に治安権限を委譲する治安
 法と治安裁判所が成立し閣僚もファランヘ党の政治家より軍人が多いという、もはや
 実質的軍事政権といっていい状態だった。

  そんな時代、祖国スペインでストレートな政権批判のような映画が撮れるはずがな
 いのだ。本作はメキシコ時代最後の長編と言われている。
  ゴダールがジャンクだらけの映像、言葉、音の洪水に紛れて実にベタにメッセージ
 潜りこませるのと対照的にブニュエルは寓意に満ちた話法の不条理劇で、フランコ
 政権、及びこれに盲目的に追随する人々、換言するならホセ・オルテガが恐怖を
 覚えただろう、ファッショを産み落とす怪物、「大衆」を批判していると思う。

  61年、「ビリディアナ」でカンヌ映画祭、パルムドールを受賞したブニュエルは
 半ばスペイン以外での活躍の場(実際はフランス)を確信して綱渡りのようなス
 リルを味わいながらも周到に「皆殺しの天使」を発表したと思う。

  政治ブログを始めて、少しは私も大人になったものだ(笑い)。

                                     
                              (了)


 〔関連記事〕

  ゴダール 「ソシアリスム」 VOL.4(その3)









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映画 「 皆殺しの天使 」 前編

    



    ルイス・ブニュエル監督のこの映画は学生の頃、観ているのだが、みんなで雑魚寝して
   いるところと羊が出てくるところ以外、ほとんど憶えていない。
    後期ブニュエル作品はほとんど観ているが、それらに比べ本作は印象が薄かった。
    つまり退屈だったのだ。パンフにコメント寄せた菊地成孔氏曰くの「意味がわからない」
   とつぶやく大量のバカの類だったのだ。
    
    大人になって評価が180度変わってしまう作品はあるものであり、本作はどうだろうと
   久しぶりに親友 I を誘ってブニュエルを見に行った。
    「ブニュエル」、「見に行く」で思い出した。

    みんなでいそいそとブニュエルを見に行こう 

  
     ブニュエルもラングも、映画史家のよって、いかにもしっくりとしない神話的仮面
     をかぶせられて映画史の前景に引き出されている。

                       ~ 蓮實重彦 著 「シネマの記憶装置」 ~
 

    この後の記述を要約すると、フリッツ・ラング ⇒ 表現主義者、
   ルイス・ブニュエル ⇒ シュールレアリストとは彼の二人を真の評価から遠ざけるこ
   とだ。ブニュエルで言えば、メキシコ時代のメロドラマや喜劇こそ評価すべきと論じて
   おります。

    結論から言うとかすかな期待を超えて本作は傑作だ!俺はガキだった、バカだったと
   言わざるを得ない。
    なぜそうなのかはこれから紐解くとして、本作の直接、間接の影響を受けた作品をより
   センセーショナルだったり、よりわかりやすく既に観ていることがあげられるだろう。
    あの熊は親友 I の指摘するようにジョン・アーヴィング原作の「ホテルニューハンプシ
   ャー」の熊の着ぐるみを想起させるし、映画撮影クルーが頓挫してホテルに足止めくら
   う様はヴィム・ベンダース監督「ことの次第」がより本作に近いし、同じ日が無限にル
   ープして学校に閉じ込められる押井守の「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」
   は、本作の舞台設定の説話論的究極ともいえるかもしれない。
    
    このようなことは映画に限らず一般的に起こるものです。
    バルトークの「弦楽四重奏」を同時代に初めて聞いた聴衆は「何だこりゃ?」と思った
   はずだが、私には何ら違和感がない。なぜか?この楽曲の子供、孫、いや曾孫を無
   意識にどこかで既に聞いているからだ。
    それはサスペンス、ミステリーばかりかTV時代劇の劇音だったりする。

    オペラがはねた後、上流階級の紳士淑女が立ち寄った邸宅からなぜか出られなくな
   る本作はシュールというよりは、不条理そのもので舞台(演劇)仕立てだ。
    (「皆殺しの天使」のオペラが予告編として流れていた)

    何日も経過しているのに燕尾服やドレスを脱ぎ棄てることない本物の上流階級、そん
   な彼らが次第に壊れていく様は、今、観るとたいそう面白いのだが、貧乏ジーンズ映画
   青年だった私には「何をやっているんだ!お前たちは!」と安直で愚劣なブルジョア批
   判しか持ち合わせていなかった。
    今やタキシード着ることもある私にとって貧乏学生よりも本作のような上流階級に興味
   の対象が移ったことが評価逆転の一因だろう。
    服装の話が出たついでに言うと、ブニュエルがいくらシュールで不条理であろうと、そ
   の画面構成、照明、俳優の身のこなし、人物配置、人の動かし方はまさしくオーダーメ
   イドの礼服のようにしっかりとした仕立てになっている。
    撮影所システムがあって戦前の身分社会、日本で言うと華族を知っている監督たち
   の映画にこの傾向が伺えると思う。
    親友 I が指摘するように吉村公三郎監督「安城家の舞踏會」などが端的だろう。



    
   【隠れ保守 ブニュエル 】 

   
    ブニュエルと言うとアヴァンギャルドでシュールで支離滅裂で意味不明、不可解と
   思われがちで、貧乏ジーンズ学生の私には「ブニュエルが隠れ保守」だなんて到底わか
   るはずがなく、これに気づいたのは中年になってからであります。
    ブニュエル自身は、糊口を凌ぐための仕事と恥入りフィルもグラフィーから外したいらし
   いメキシコ時代の作品に「幻影は市電に乗って旅をする」という作品があります。
    鉄ちゃん(電車バカ)の二人組が市電をかっぱらって様々の事件に巻き込まれつつも
   翌朝には市電の車庫の元どおりに戻し、何くわぬ顔で帰っていくと言う筋立てです。
    市電に運航を巡ってだと記憶しているが、ブニュエルはズバリ老婆に語らせている。

     「大衆はいつも不平不満ばかり言うが一度たりとも(世の中を)しょって立とう
      と思ったことがない」と。

    この発言は保守のスタンス以外の何者でもなく、大衆批判は今日の保守思想の中で
   はやや影が薄いが、大衆批判の本家、ホセ・オルテガの母国、スペインの映画監督
   ブニュエルならではのものだと言えよう。
    本作と「ブルジョアの密かな愉しみ」などを合わせると、ブニュエルがブルジョア(エセ
   保守=大衆)批判の作家であり、表現がいくら「保守」とはかけ離れていても「隠れ保守」
   であることは疑いの余地のないことだろう。


                                  (つづく)






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映画 「 ダンケルク 」




     
     今年は、恒例の「真夏の戦争映画シリーズ」も書き損ねてしまったが、その際、取り上
    げるはずだった「ダンケルク」も危うく見逃すところだった。
     久しぶりに親友 I とこの映画を観に行った。

     結論からいえばこの映画は予想どおり、期待どおりで満足いく出来だった。
     クリストファー・ノーランは本作で今までのフィルモグラフィーの真逆をやってくるだろう
    と思っていた。すなわち、何度も更新されイメージの固まったキャラクターをさらに更新し
    た「ダークナイト」(単純な善悪二元論では収まらない思索へと誘う映画)、革新的な映
    像表現に満ちた「インセプション」、これらとは真逆の「普通の映画」に仕上げてくるな
    と予感してその通りだった。

     正確には「普通の映画」とはヌーベルバーグの精神的支柱、アンドレ・パザンが称揚し
    たアメリカB級映画から派生したフレーズであり、本作は「普通の映画」から逸脱した「普
    通だが、奇妙な映画」と言った方が正確だろう。
     B級映画 ⇒ 普通の映画で思い出される戦争映画といえば、サミュエル・フラー監督
    「最前線物語」、クリント・イーストウッド監督「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」などが
    思い浮かぶが、撮影所のプログラムピクチャーを撮ったことのない監督が現役世代のほ
    とんどを占めるのだから、これら「普通の映画」を今日、期待するのは無理な相談だ。


     さて、親友 I は本作に不満たらたらだったらしく、突っ込みどころ満載な映画だと厳し
    い評価を下していた。
     曰く、

      アメリカ映画(人)は単純だ。
      いくつものエピソードがあるが、それぞれ掘り下げれば1本の映画になる。
      実際のダンケルクの脱出劇はこんなもんじゃなかったはずだ。
      殺気が感じられない。etc

     ナルホド、いちいち、おっしゃる通りだ。
     特に反論の余地はない。
     私の映画を観る目はすっかり鈍らになってしまったのだろうか?

     戦争映画は特にリアリティーが重視されるジャンルかもしれない。
     そういう意味で本作は物足りなさが残るのかもしれない。
     戦争映画は、リアリティーが重視されるとともにたぶんにエンタメ化が必要であり、さら
    に「映画」そのものに肉薄する要素満載であろう。
     これらに関して過去の戦争映画にふれながら、「ダンケルク」を再吟味してみよう。
    
     リアリティーを突き詰めると、「プライベートライアン」かとも思えるが、この映画はたぶ
    んにエンタメ化されていることから、リアリティーそのものというと、ロベール・ブレッソン
    的戦争映画ということになろうか?そんなのあったかな。
     ブレッソンとタッチは違っても、この路線に一番近いのはスタンリー・キューブリック監督
    「フルメタル・ジャケット」ではないか?新兵が殺人マシーンに洗脳されて戦場へ赴く様が
    描かれているが、そこには批判的視線はなく、ラストも絶望すらない。
     何とも人を食った映画で面白いか面白くないかといえば後者であろう。
     兵士を巨大な顕微鏡で眺めているが如くで確か四方田犬彦氏だったと思うが、コンラ
    ート・ローレンツ博士の動物学の視点の映画と言っていたが言い得て妙だ。
     ここまで徹頭徹尾、醒めきった視線はリアリティーの極北というかブレッソン的だろう。

     いやいや戦争映画は、やっぱり派手にドンパチがあって、血沸き肉踊るシーンの連続
    でなければならない。このタイプの戦争映画が一番多いが、兵隊そのものがエンタメ化
    しているのが勝 新太郎、田村高廣のコンビの兵隊やくざだ。
     リアリティーと相反するが戦争映画にエンタメ化は不可欠だ。
     両者の絶妙な匙加減こそB級映画 ⇒ 普通の映画だ。

     戦争映画は、そもそも極めて映画的構成要素で成り立っているのであって、本作同様
    脱出劇である「太平洋奇跡の作戦 キスカ」で当時、キャリアにピークであったろう三船
    敏郎の風格がいいとか、CGの発達した現代では突っ込みどころ満載かもしれないし、
    逆にアナログレコードやカセットテープがもてはやされる昨今、逆に新鮮に映るという
    倒錯趣味かもしれないが、円谷英二の特撮がすばらしいとか、語られるのが「キスカ」
    という戦争映画の映画的風土だ。
    
     戦争映画のいくつかの様相を軽くスケッチしたが本作に戻ると、「ダンケルク」は、やっ
    ぱり「普通だけど奇妙な映画」だ。
     一応、戦闘シーンはあるが、勇敢な兵士が出てくるわけではなく、これといった美談も
    なく、戦争の悲惨が刻銘にフィルムに定着しているわけでもない。
     (同じ脱出劇でも「キスカ」は英雄譚であり美談だ。)     
     本当は闘いたくなく故郷・イギリスに早く帰りたい兵士、反撃すらできず怯える雑兵。
     これらは「エンタメ化」、「映画的構成要素」のどれと照らし合わせても傑出した出来と
    はいえず、少しばかり「リアリティー」があるかと私は思うだが、親友 I にしてみれば、
    それも不満が残るようだ。
     
     戦争映画の常道の代わりに描かれるのは “ 戦場における境界線 ” だ。
     海に不時着した戦闘機のコックピットに浸水してもがくパイロット、民間船に乗船した兵
    士と船長との諍いから命を落とす子供、船底で潮の満ちるの待っている間、船体に空い
    た穴から海水が浸水しパニックる兵隊。
     どれもこれも戦闘の勇猛、兵士の美談、英雄譚とは程遠く、情けなく無様でおマヌケと
    さえいえる。
     クリストファー・ノーランは、おそらく従来の戦争映画ではカットされる事柄を描き続け
    る。 
     
     燃料切れの英国戦闘機がドイツ戦闘機をギリギリで撃墜する様は映画における御都
    合主義(エンタメ化)とも言えるが、そればかりではあるまい。
     瑣末な事柄もカッコいい戦闘もどれもこれも “ 戦場における境界線 ” =ギリギリの一
    線なのだ。この一戦が戦場における生死を分ける。
      当たり前だが、忘れ去られがちなこの事実が本作では何度もリフレインされ刻銘に描
    かれる。
     
     
     本作では親友 I 指摘のように通奏低音のような重低音が始終リフレインされる。
     映画音楽は何か足らなくて映像と一体化して効を奏するものがよいと言われる。
     音楽・音響が前に出ても違和感ないのは、この言説を逆援用すると、映像その
    ものが何とも中途半端で物足りないからかもしない。
     それは凡庸すれすれだがキラリと光る要素を集めて構成されるB級映画 ⇒普通
    の映画ですらない。

     やはり、映画「ダンケルク」は「普通だが、奇妙な映画」だといえよう。
     
     あざといばかりの絢爛たる映像表現でもなく、思索へと人を誘う作劇でもなく、
    戦争映画の重要要素、リアリティーすら脇が甘い、この映画が私は妙に気に入った。

     私は年をとったのだろうか?
     いや、実人生でギリギリの一線の勝ち負けを若い時より何度も経験してきたからだ
    ろう。 



     
    
  







 

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映画 「 メッセージ 」

     
                                     以下、ネタバレ含みます。    


   〔今日、SF映画にとって「描写」とは?〕

     21世紀になって果たしてSF映画は可能だろうかと常々考えている。
     何を言っているか、これだけSFX、CG等が発達したのだからどんな表現も可能ではな
    いか。確かにそうなのだが、あの頃の未来の輝きを知る「20世紀少年」の私としては、
    どうしても科学は停滞しているとしか思えない。何をいっているか、IT ⇒ ICT ⇒ AI、
    バイオ ⇒ 再生医療(i PS等) ⇒ 不老不死と実用化に向かって突き進んでいるではない
    か。これらはあの頃、夢想した「未来」の現実化に過ぎない。数年後、若しくは10数年後
    実用化するものなどSFの題材となり得るのだろうか?

     実用化がひたひたと迫っている時代に描かれるSF映画とは、近未来再現フィルムか
    プロパガンでしかないのではないか。
     それにSFX、CG等が発達すればするほどクリエーター達の想像力、映像喚起力は削
    がれるのだ。パラドックスのようだが、これは間違いのない事実だと思う。

     小説では「描写」することが肝要だと言われるが、SF映画においては背景、美術、メカ
    等の細部まで徹底的にこだわり描き込んでいくことが「描写」だと少し前までは考えられ
    ていた。もちろん、今でも間違いないのだが、何でも表現可能となった現在、細部まで
    描き込んでいく「描写」にそれほどの価値があるのかと、フト、疑問に思うのです。

     「あの頃の未来」が現実化、実用化されていくのが昨今ならば、人間が初めて新たな
    事態に遭遇した時、いかに考え、振る舞い、どういった反応を示すかを丹念に描きこん
    でいくことこそ現在、求められるのではないか?21世紀現在が「あの頃の未来」だった
    時代にはAI、エイリアン等の存在、意味を所与とした物語だったが、これらが現実とな
    りつつあったり、既にジャンル映画として出来あがっているなら、所与として前提だった
    事態に人間が初めて遭遇した際のドラマを「描写」すべきではないか?

     以前取り上げた「エクス・マキナ」がAIに関するこの視点に立ったSF映画であり、エイ
    リアン(地球外知的生命体)を題材にした同様の視点の映画が本作「メッセージ」だろう。
     心理サスペンス&ホラ―でもあった「エクス・マキナ」に対して本作は宇宙とスピリチュ
    アルが絡んでくる。もちろん、SFXも使われているが、あくまで最小限度であって本作の
    肝心な「描写」は古典的に光学レンズが語っているのだ。
 
     随分と大上段に構えたチャプターだが、本作の場合、どうしてもSF映画の「描写」を意
    識せざるを得ないのです。



   〔宇宙とスピリチュアル〕

     具体的にはシングルマザーで言語学者・ルイーズ・バンクス(エイミー・アダムス)と早
    死した娘のシーンで光学レンズが「描写」する。被写体深度を浅くして中型カメラのアオ
    リ効果の連続のようなボケ味をふんだんに生かした母・ルイーズと娘のシーンはまるで
    二人が漆黒の宇宙空間に浮かびあがる二つの惑星のようだ。
     細部まで描き込むことはせずに心象と空気が一体化している。
     すべてを描き込むことが常態となった現在のSF映画では新鮮であり想像力をかき立
    てるシーンの連続だ。
     
     ジョディー・フォスター主演「コンタクト」が宇宙を舞台としながらも父と娘のストーリーだ
    ったように本作はエイリアンとの遭遇を主軸にしながも母と娘の不思議な関係性が映し
    出される映画だ。従って主役同様に重要な存在であるはずのエイリアンはあっさり古典
    的なあのシルエットで描かれている。ネットの世界でおなじみグレイとかレプティリアン
    とかではなく古典的なあの姿だ。本作でエイリアンは実は媒体でしかないのかもしれ
    ない。

     エイリアンの文字を解読しながら、やがてルイーズが世界の理(ことわり)を発見するこ
    とにこの映画の主眼がある。
     「徴(しるし)は到るところに」―― これはゴダール「映画史」のチャプターの一つだが、
    エイリアン文字を解読するに従い、早死した娘とのやりとりの記憶の中からあちらこちら
    に徴を発見する。因果律が捻じれ歪む様は凡百な「タイムトラベル」ものよりはるかに斬
    新で面白い。文字を解読することはパズルを解くことに似ているのかもしれない。
     最後のパズルを埋め込み「絵」が完成したかと思った瞬間、すべてが破壊される、ニコ
    ラスローグ監督「赤い影」が英国雑誌「Sight & Sound」の2012年版、映画オールタイ
    ムベスト100(監督選出部門)の91位にランクされている。(批評家選出部門ではランク
    外で、因みに監督選出部門1位は「東京物語」)当ブログでも以前取り上げたが、公開
    時(1973年)は訳のわからないカルトで片づけられたであろう「赤い影」が、近年、評価
    を上げてきていることと、西欧人が不得意だろう捻じれた因果律と予定調和が混在する
    本作のような映画が作られたのは単なる偶然だろうか?

     ルイーズがエイリアンの文字を解読するにつれ、世界がバラバラになっていく様はアイ
    ロニカルで面白い。アイロニカルといえば予定調和に支配される西欧人が捻じれた因果
    律を混ぜ込みながらも、結局は予定調和的にエンディングを向かえるのも実にアイロニ
    カルだといえよう。(このアイロニカルで矛盾するエクリチュールこそ「赤い影」とぴたりと
    符合するのです。)
     あまりに予定調和的であるが故にあれとは別のラストもパラレルワールド的に想像し
    てしまうのは私が予定調和より因果応報が中心の東洋人だからだろうか?
     どちらにも転び得るオルターネイティブな存在がエイリアンのマザーシップとすると、あ
    れは宇宙船ではなく人の心そのものに思えてくる。

  
     すなわち、宇宙とスピリチュアルの合一の映画なのです。 





     
     
   〔関連記事〕

    ショートショート劇場 「 A I 統一戦争」

    「デストラップ」&「赤い影」 B面    






 
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映画 「 ジャッキー 」

    



    朝鮮半島はどうもキナ臭くなってきたが、50年以上前、あわや第三次世界大戦かいう
   際どい時も、ファッショナブルなファーストレディーがいた。
    ジャックリーン・ケネディーであります。
    私はどうも知り過ぎてしまったところがるので政治的映画はパスなのだが、ケディー夫人
   にスポットを当てているならということで劇場に出かける。

    【歴史上の人物を超える役者】
     
     映画において歴史上の人物映画は戦争映画、SF映画、恋愛映画、ホラー映画、アク
    ション同様、間違いなく一つのジャンルだ。 
     映画における「神話作用」の構築と更新という意味で人々が考えている以上に映画的
    なジャンルだといえる。本邦でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、宮本武蔵とあまた
    の役者が演じ続けてきたし、今後も演じ続けられるだろう。「遠山の金さん」の遠山金四
    郎のようにあまりに各役者が個性を発揮してきため歴史上の人物かフィクションかわか
    らなくなってしまったものもある。
     「アラビアのロレンス」のピーター・オゥールなどあまりにヒロイックで実在の人物がどう
    のこうのはどうでもよくなり、「映画のおける神話作用≒スターシステム」の真骨頂だ  
    ろう。おかげでこの映画の隠された意図、すなわち、MI6だったロレンスが英国にいいよ
    うに使い捨てられたという事実の“ 公然たる隠蔽 ” が完遂されるのだ。
     本作のナタリー・ポートマンはどうだろう。優雅にして威厳に満ちた堂々たる貫録ぶり
    に引き寄せられるではないか。本人の演技力もさることながら、「ブラック・スワン」以後
    結婚・出産を経たからこそ醸し出せる存在感だ。これは役作りとか演出ではなく、彼女
    の実人生の彫琢のなせる業だ。私はジャクリーン・ケネディーにさしたる関心がないせ
    いか、実在の彼女はどうでもよくなった。
     さわさりながら、このようなブログやっていることから醒めた見方をすると、ケネディー
    家もジャッキーが再婚したオナシス家も共にイルミナティーだ。それに私の記憶が確か
    ならダラスでJ・F・ケネディーが頭部打ちぬかれた時、ジャッキーは逃げようとしたはず
    だ。それが普通であり特にどうこうではないが、この映画ではJ・F・Kを妻であるジャッ
    キーが頭を押さえようとしたとしている。我々はJ・F・K暗殺の黒幕の一人がパパ・ブッ
    シュであると承知している。これまた私の記憶が確かならば、オナシスもその黒幕の一
    人であったと言われる。当のジャッキーは生涯知るよしもなかったのか途中で気づいた
    か定かではないが実に皮肉だ。
     それは現代の価値観であり、冒頭に列挙した戦国大名の頃なら普通のことだ。
     滅ぼされた方の奥方が仇の妻になることはよくあったことだった。



    【ナタリー・ポートマンの目力と泣き顔】

     ナタリー・ポートマンのデビュー作は「レオン」だ。
     この当時はまだ子供だったが、この時の彼女の演技に多くが集約されるように思える。
     その一つがレオン(ジャン・レノ)に仕事をだずね、「殺し屋」だと答えるとマチルダ(ナタ
     リ-ポートマン)が「すてき」と静かに答える子供とは思えない目力(意思)の強さだ。
     もう一つはレオンが死を覚悟したことをマチルダ覚った時、「レオン、死ぬ気なのね」と
     言いつつ泣きじゃくる顔だ。意思が強く聡明であるが故にこの泣き顔は光る。
     (同じジャン・レノと共演した広末涼子も一時期、泣きの演技を一つのパターンとしてい
     たが、広末の場合、ズルさが滲む)
     そうでもない役もこなしているが彼女の場合、苛酷な状況に身を置く役が好きなので
     はないかと思えてくる。その方が彼女の意思の力を如何なく発揮出来ると本能的に
     知っているのだ。「Vフォーヴァンデッタ」では意思の力は目力ではなく坊主頭になるこ
     とで発揮された。Vに謎かけされるように一時見捨てられるイヴィー・ハモンド(ナタリ
     ー・ポートマン)の泣き顔が印象に残る。「ブラックスワン」では意思の目力はつきぬけ
     て魔物に取り付かれたブラックスワンの目となる。それまではどちからというと母親離
     れできない弱虫の泣き虫に思える。
     今回の「ジャッキー」は、苛酷な状況に生きる女性の真骨頂のような役柄だ。
     目の前で夫が銃弾で頭を撃ち抜かれる女性はめったにいないもの。
     パニックとショックと絶望的な悲しみの中、目力(意思)の女性、ナタリーポートマンの魅
     力はいかんなく発揮される。気丈に構えていればいるほど彼女の泣き顔は響く。
     粛々と進む政権委譲と葬儀の準備、政治家、スタッフの反対の中であくまで己の意思
     で夫の棺と共に行進すること主張するジャッキー。ファーストレディー、ここにありと言う
     ものでどこぞの国の公私の区別がつかないファーストレディーもどきも眼(まなこ)をよ
     く見開いてこの映画を観たらいい。
     葬儀後インタビューを受けるジャッキー(ナタリー・ポートマン)の表情は、意思や悲嘆
     や怒りを通りこして達観した涼しさを漂わせている。「ブラックスワン」の頃の彼女は、
     まだどこか子供っぽさを残していたが、本作の彼女は一気に大人びて見えた。
     「ブラックスワン」でオスカー取っていなかったら女優賞ものだろう。

     そうそう肝心なことを言い忘れていた。
     こんな状況でもジャッキー(ナタリー・ポートマン)はシャネル他を華麗かつ小粋身にま
     とっている。昔の「キネ旬報」風にいえば、このあたりに「興業価値」があるだろう。
     すなわち、どんなときもファッショナブルなジャッキーは女性客を吸引するということだ。
   
     実際、場内は女性客が多かった。








     


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