素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

地球交響曲(ガイアシンフォニー)

    



    今年は最後に何を書こうかと思案していたが、12月は心がざらつく出来事が続き、24年
   前に観たこのドキュメンタリー映画に辿りついた。
    ご存知のように龍村 仁監督の「地球交響曲」は第8番(2015年)まで作られたが、そ
   もそもこの「地球交響曲」(第1番)が自然発生的に自主上映、ロングランを繰り返し広がっ
   ていかなければ、第8番まで続かなかったのだ。
    私は第3番まで観たが、その後は観なくなってしまった。
    公開当初、1992年から観た21世紀はもっと光輝く新しい時代となるはずだった。
    仕事が忙しくなりそれどころではなくなったこともさることながら、あれから約四半世紀、
   世界は「地球交響曲」とは真逆の世界へと進行していったこともこの映画から縁遠くなっ
   ていったことの一因だ。
    
    今、改めて観直すと「絵空ごと」のように空々しいだけなのだろうか?
    それとも今だに霊力を保っているのだろうか?
    初見の頃は紹介される人々が統一的メッセージを発しているようには思えなかったが、
   真逆の世界となった現在と対比してみると実は各人の発言がつながっていることがよく
   わかる。
    それでは逐次、各人のエピソードを追っていこう。

   〔野沢重雄〕 ~ 植物学者 ~

    通常では一つのトマトの幹に実るトマトは60個程度なのに対して野沢氏のハイポニク
   スでは1万6千個ものトマトを実らせることができる。
    21世紀の現実の世界では、バイオ(遺伝子工学)は経済効率最優先のみならず、優生
   学に基づく人口削減の道具、及び食糧兵器たる農産物の穀物メジャーによる支配が趨勢
   となっている。モンサントは、今や、日本以外の世界中で袋叩きで弱体化した。
    しかし、依然としてアメリカでは農家を集めた研修会をやると「みなさんは食糧という兵器
   を作ってアメリカに貢献している」と有識者が明言すると聞く。

 野沢重雄



   〔ラインホルト・メスナー〕 ~ 登山家 ~
    
    世界の8,000m級の14山を単独ですべて制覇した世界唯一の人物(当時)。
    800m崖から転落する際に幽体離脱した経験や様々な臨死体験からチベット仏教に帰
   依する。 
    スピリッツ、マインド、ボディー、この3者のうち自分自身の一番弱いところに人は左右さ
   れざるを得ない。昔、上司に仕事のスキルはいくつかあるが、その平均点ではなくて一番
   ダメなところに合わせて評価されるものだと聞かされたが、これに似ているのかもしれな
   い。個人事業者はともかくサラリーマンはそういうものだと思われる。

 ラインホルト・メスナー



   〔ダフニー・シェルドリック〕~ 動物保護活動家 ~

    密漁により孤児となった象を育て野生に返す活動をしている。
    人間より古く6,000万年前から地球に存在する象は人間と同程度の脳のしわを持つ
   がそれらが何に使われているか定かではない。
    人間の善の部分はほぼ同様に象も持っているが、悪の部分はほとんど持ち合わせて
   いない。孤児から育て野生に返した象エレナは今もダフニーが名前を呼べば森から姿を
   現す。
  
    この人のエピソードがこの映画一番の訴求ポイントだろう。
    私はいいかげんすれっからしなので、人間ドラマの不幸や悲劇はさほどこたえないが、
   動物ものはどうも弱い。

     エレナは全てを知っている。それでもなお人間を愛している。

    すなわち、象牙が欲しいが故に密漁を繰り返す人間がいかに身勝手で邪悪な生物かを
   エレナは承知しているが、それでも人間を愛しているということだ。
    初見の時もそうだったが、このシーンはどうしても落涙してしまう。
    今回、観直してエレナそのものが地球(ガイア)=自然を体現しているように思えた。

 ダフニー・シェルドリック


   〔ラッセル・シュワイカート〕~ 元宇宙飛行士 ~

    1日宇宙にいると自分の国を探し、3日いると自国のある大陸を見つけ、5日いると
   地球そのものを見つめるようになるという。
    地球意識に目覚めるのは宇宙空間から地球を眺めるが一番だろう。
    今後、普通に人類が宇宙に出るようになったらポストモダンは完全に終わる。
    逆に言うと、ポストモダンと情報化のこのしょうもない状況を克服しない限り、テクノロジ
   ーとは別次元で人類は宇宙へ行けないと考える。
    ラッセル・シュワイカートは言う。

     胎児が母体を出るように人類は宇宙的誕生(コズミック・バース)の時代に
    さしかかっている。

    

    初見の時より今の方がはるかにこの言葉が響く。
    現実では、「地球」は「ガイヤ」ではなくて「グローバル」という言葉と共に実に身勝手な
   使われ方をしている。地球温暖化詐欺を見るがいい。いまだに世界中が催眠術にかけら
   れたようではないか。炭素税というトービン税を徴収したいがために。


 ラッセル・シュワイカート


    資本主義にどっぷりと浸かっている人々、「勝ち組」たらんとする人々にこの映画は無縁
   だろう。換言するなら資本主義が進めば進むほど人々はこの映画のようなスピリチュアル
   を必要とする。なぜだろう。一神教たるキリスト教を出自とする資本主義は非対称性の産
   物だからだ。さらにデジタルも非対称性。すなわち、サイバー資本主義は非対称性の権化
   そのものなのだ。
    安倍首相の言う「この道しかない」はポストモダンにおける「強度」の体現ではなく、「非
   対称性」の発露に他ならない。

    この映画は、「今だけ、自分だけ、ここだけ」と真逆の世界を提示している。
    野沢重雄氏は言う。

     「私のハイポニクスは今の科学では説明がつかない」と。

    「今の科学だけ」というスタンスではないということだ。

    ラインホルト・メスナー曰く、

     「自分は特別な能力があって、8,000m級の山々を制覇してきたのではなく、他の人
      より生命力を発揮する方法を知っていただけだ。」と。 
     これは野沢氏のトマトの幹がなぜ1万6千個ものトマトを実らせるかについての説明に
    通じる。本来持っている生命力を発揮しただけと説明された。
     25年前なら、「?」と疑問符がつくだろう。自然治癒力は西洋医学では軽んじられる
    が、今年、大隅良典・東京工業大学栄誉教授がオートファジーでノーベル賞をとった今
    なら、「本来持っている生命力」とか「自然治癒力」は依然よりも腑に落ちるというもの
    だ。


    25年前と比べるとひどい世の中になってしまったのかもしれない。
    だからと言ってここに描かれる世界が「絵空ごと」ということにはならない。
    ダフニー・シェルドリック曰くのように「間に合わなくなる前に人は気づくものだ」とするな
   らば、この25年ひどくなるばかりの世界は「間に合わなくなること」を人に気づかせるた
   めのひどさ、そのための一里塚だ。
    世の中、正負の法則なのだ。
    
    そろそろこの映画の通奏低音というべきメッセージを監督・龍村 仁本人に語ってもらう
   時が来たようだ。

 龍村 仁

 
    つまり、人間の未来を決めるのは科学技術や法律や制度や経済学説ではなく、
    人間の想像力だということだ。

    これは、ラインホルト・メスナーの「今、心の革命が必要だ」に通じる。
    単純過ぎると言われるかもしれないが、結局、一神教の産み出すものはどこまで行って
   も非対称性の産物だとしか思えない。対称性の世界を実現するは多神教とアミニズムに
   親和性を有する日本人の力がどうしても必要だと思うのです。
    この映画はそれを再び思い起こさせてくれた。

    乱筆、乱文の当ブログを1年間、お読みいただきありがとうございました。



地球交響曲
今でも日本のどこかで上映されているだろう。
本作のナレーション、吹き替えの木内みどり
さん、湯川れい子さんが共に三宅洋平の
応援に駆けつけたのは単なる偶然か。







 
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八百万の神々 第一回 出雲大社 最終回 神々との対話

   



   結論から言うと、今回を含めて2回、ないし3回でこの一連の記事を終了するつもりだった
  が、今回で最終回とします。
   なぜかと言うと、「もうこれ以上、出雲大社の秘密を暴くな」と言われたからです。
   誰に?信じられないでしょうが、人間ではありません。「あの世」の存在に言われたの
  です。
   頭がおかしくなったんじゃないかと思われるかもしれませんが、私はいたって冷静です。
   同じような経験したら、普通、もっとパニクッているはずですが、自分でもびっくりするく
  らいに冷静です。

   今思うにことの起こりは出雲大社について書き始めた数日前のことだったかもしれま
  せん。
   「バタン」と凄い音がしたので皿でも落ちたかと思ったら、便器の側面が外れて落ちていま
  した。人がいなくなると自動的に閉じる便器なので後の側面が外れるようになっていたので
  すが、それにしても不自然なほど凄い音でした。
   怪訝に思いながらもそのままやり過ごしました。

   昨日のことです。
   ほんとは今回アップするはずの草稿書き上げたのですが、眠くなってきたことから明日打
  ちこもうとベッドに横になっていると、「コン、コン」と音がします。
   風呂場でシャワーでも滴でも垂れているのかと、確かめにいくと滴が落ちていましたから、
  しっかり閉めてベッドに戻ると、また「コン、コン」と音がします。「おかしいな」と思いつ
  つ風呂場に向かうと今度は滴は落ちていませんでした。変だなと思っていると、別の所から
  「コン、コン」とまた音がします。「なんだ、トイレでも壊れたか」と思いつつ、めんどうだ
  から明日にしようとベッドに横になると「コン、コン、コン」とだんだん頻繁に響いてきます。
   当初は風で何かがぶつかっているのだろうと思っていましたが、さすがに気づきました。
   これは自然現象でも物理現象でもないと。
   「もういいや、寝てしまえ」と寝ようとしましたが、「コン、コン、コン」といつまでも続
  きます。しばらく寝つかれませんでしたが、結局、寝てしまいました。

   朝になり「もう治まっただろう」と思っていたら、「コン、コン、コン」とまた音がします。
   どこだろうと思ったら、何と玄関から聞こえるではありませんか!風が強くて何かが当たっ
  ているのだろうと自分に言い聞かせ、外に出るとそれらしきものはありません。
   家の中に戻るとまた、「コン、コン」と始まりました。
   もはや疑いようもありません。
   でも、昨夜といい今朝といい不思議と怖くありませんでした。
   悪い霊なら私の部屋へ来て暴ればいいのです。朝一で正面きって玄関をノックする悪霊
  なんかあるもんですか。これは悪霊ではなく私に何かを伝えたがっているのだと思いま
  した。
   「はて何だろう」と暫し考えましたが、「はた」と閃きました。
   出雲大社についてこれ以上書くなと言いたいのではないかと。
   そこで私は「神々と対話」することにしました。

    私  「出雲大社の神々を擁護することは書いていても貶めるようなことは一切書いて
        おりません。どうしていけないのですか?」

    神々 「コン、コンコン、コーン、コン、コン」
  
    私  「(何が言いたいのかわかりませんが)これから書こうとしていることも、本
        やネットに既にあることを編集してわずかばかり私の見解を述べるだけです。
        そんなたいしたものではありません。」
   
    確かにそのとおりで一つ一つはたいしたことなくても編集し直して現地でも検証をまじえ
   ると、結構の密度と説得力を持つものと自負しています。
    それにしてもモールス信号みたいな「コン、コン」と言っているだけでさっぱりわから
   ない。
    待てよ、そういうことではないのかもしれない。

    私  「これ以上書かない方が私のため、私のことを思って下さっているのですか?」

    神々 「コン!コン!」 

   とひときわ大きく明瞭な音がした。「そのとおりだ」とおっしゃっているように私には思えた。
   わかりました。こうこれ以上書きません。
   (ここから先が佳境に入ることから残念で仕方ない。)
   そこで問うてみた。

   「今日、ここであったことはブログにアップします。それはよろしいですか?
    ダメなら『 コン、コン、コン 』 と連打して下さい。」

   何の反応もない、同じことを3回言ってみたが、その前後は「コン、コン」とやっているのだ
  が、何の反応もない。そこで了解して頂いたものと解した。
   しばらくするとまた「コン、コン、コン」と始まった。
   そうだこれも聞いてみよう。

    「この 『 八百万の神々 』 シリーズは続けていいですか?いや、続けさせて下さい。
     お願いします。」

   自然と手を合わせていた。
   これまた何の反応もない。積極的に肯定も否定もしないと受け止めさせて頂きます。
   
 
   こういった題材を扱うと超常現象、神秘体験としか言いようがないことが起こると何人かの
  小説家、マンガ家、映画監督が語っていた。彼らの多くはお祓いなどして「作家魂」で結局、
  続行させることが多い。私はこれで禄をはんでいるわけではないし、相手が相手なので断
  念することにした。
   素戔男尊か大国主大神か倭迹迹日百襲媛命か存じ上げないが、いずれかの使者が私の
  ところへ来たのだろうと考えている。
   当ブログの分類「精神世界」とか言っても「古代史ミステリー」やっているだけで、我ながら
  「精神世界」じゃないじゃないかと思っていたのだが、最後に「精神世界」(スピリチュアル)
  になってしまった。

   幼少の頃からの漠然とした思い、「スサノヲはもの凄い力を持っていながらその力を封印
  させられた存在」をこれからより立体的に挙証していくつもりだったが、今までの記述でも
  そのアウトラインくらいはご理解頂けたのではないかと思っております。


   参道から大鳥居を望む
                    参道から大鳥居を望む

   最後にこれだけは言っておこう。
   参拝を終えて大鳥居へ帰る道すがらかなり強い風が吹いていた。
   参道の樹木を吹きわたる風はとてもすがすがしく、一足早く初詣を終えたような気分にな
 りました。スサノヲを祀る蘇我氏はスガ氏とも言われ、それはスサノヲが発した「すがすが
  しい場所」に由来するらしい。この参道を渡る風こそ正真正銘の「すがすがしい」だ。
   日本は本来、すがすがしい国なのです。
   血なまぐさい戦いがあろと、戦前はもちろん何度か息苦しい時代があっても根本はすがす
  がしい国なのだと思います。
   そんなすがすがしい国、日本が今再び息苦しい国になってしまうかもしれないこの時期に
  出雲大社を訪れたことは私にとって大きな出来事でした。

   私は千葉市に生まれ育った。
   ご存知のように千葉市にはスサノヲを祀り、スサノヲの末裔、物部氏と縁戚関係の蘇我氏
  と同じ「蘇我」という地名があります。また、スサノヲの子、饒速日命は葛城氏の女性を妻
  にめとったのだが「葛城」という地名も千葉市にあります。
   そんな千葉市に生まれ、スナノヲに幼少の頃より惹かれていた私が今回、出雲大社を訪
  れたのは単なる偶然だろうか?ふとそう思わざるを得ない、出雲大社詣ででありました。
  
   出雲大社の神々、これくらいは書いてもよろしいでしょう。
   
   お許し下さい。
   
            (第一回 了  「出雲路を行く」につづく)



  〔参考文献 〕

   「出雲と大和」 村井康彦 著

   「神道と風水」 戸矢 学 著

   「神社仏閣に隠された日本史の謎と闇」 中見利男 編著

    歴史読本 特集「神社に秘められた古代史」

   「やまたのおろち」 羽仁 進・文 赤羽末吉・絵 
 
   「すさのおとおおくにぬし」 赤羽末吉 絵 舟崎克彦 文 

   「ミロクの暗号」 中矢 伸一 著  
    
    







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八百万の神々 第一回 出雲大社 その5

 



 〔古代史という樹海〕  

   古代史は樹海のようなものです。
   すなわち、迷宮の森であって多数の学説、有力説があるのだが、どれが出口(正解)かわ
  からない。おそらく相応の説得力を有する説でもどこかに瑕疵がありすべてに整合するもの
  はないと思われる。有力説が文献と整合しないとしても、そもそもその文献がねつ造、若し
  くは間違いだったりすることもあるのです。
   そんなわけで整合性を求めつつ出口(正解)を見つけているつもりでも、ますます迷宮の
  森をさまよい歩くだけだったりする。
   本物の樹海と古代史という樹海は、ひとつ決定的に違うところがあります。
   本物の樹海に入ったら森そのものを外から見ることはできないけれど、古代史という樹海
  は森そのものを外から見ることができるという点が違います。

   「ソサノヲの正体」、「国譲り」、「出雲大社とは」と述べてゆこうかと思うが、「木を見て森を
  見ず」という落とし穴に落ちないように進めていきます。とりあえず、一説を紹介してこれを
  検証する方法論を取ります。

   前回、スサノヲは十種神宝を所持していたのではないかと仮定した。
   すなわち、スサノヲが身ぐるみ剥がされて高天原を追放されたとする「記紀」の記述そのも
  のが怪しいのではないかという結論に至りました。
   「スサノヲの正体」を探るにあたって中見氏は姉と言われる天照大神(アマテラス)からア
  プローチするのがよかろうとしている。古代史上、もっとも有名なのがアマテラスであり、こ
  れを確定していけば大きく正解からぶれないだろうということかもしれない。
   卑弥呼が天照大神(アマテラス)だとする説は、古くは和辻哲郎氏の頃から唱えられて
  いる。
   それでは卑弥呼は誰かと言うと、近年、皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめ
  のみこと)だとする説が有力なようです。三段論法で整理すると、

    天照大神 = 卑弥呼 = 倭迹迹日百襲媛命

   となります。すると、アマテラスの弟スサノヲは、倭迹迹日百襲媛命の弟、吉備津彦命とな
  るのが自然だと同氏は説く。吉備津彦命は桃太郎のモデルとして知られ、「鬼ヶ島」とは鬼
  のような渡来人、温羅(うら)の築いた城であると言われる。(桃太郎 = スサノヲ!?)
   中見氏はスサノヲのスサは水銀などの原料の朱砂(スサ)のことであり、「朱砂の王」では
  ないかと続ける。古代吉備王国が治めた奈良県の纏向遺跡(まきむくいせき)から朱砂とか
  吉備式の土器が出土したこと等をとりあげて挙証する。
   詳細は省くが、とりあずスサノヲ=吉備津彦だとしよう。
   そうすると、どうも時系列がおかしいのだ。
   吉備津彦は第七代崇霊天皇(在位 BC290~215)の第三皇子であり、スサノヲは神武
  東征よりずっと時代の下った頃の人物になってしまう。「国譲り」以前にオオクニヌシは存在
  しないといけないし、その義父スサノヲはなおさらだ。
   さらに吉備津彦命の姉、倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼 = 天照大神となると、神武天皇の
  子孫が天照大神?いよいよ変だ!

   歴史学(古代史)が実在を確実とする天皇は第26代、継体天皇(507~531年)か
  らであり、それ以前は神話の世界も含めて存在自体が怪しい天皇すらいるとされている。
  (特に2~9代あたりは怪しいらしい。)神武天皇の存在は間違いないとしても在位が
  BC7~6世紀とされているが、紀元後だとする説もあるようだ。
   さあ~、困った!わけがわからなくなってきた。

   諸説はともかく、私の結論を言うと、卑弥呼 = 倭迹迹日百襲媛命は、纏向遺跡の箸墓古
  墳(はしはかこふん)に対する年輪年代学や放射性炭素年代測から鑑定される卑弥呼の死
  亡時(BC248年)に近いことからほぼ間違いないと思う。
   同時に卑弥呼 = 天照大神も間違いないのではないか。
   卑弥呼は中国の史書「魏志倭人伝」、「三国志」に登場するくらいの大人物なのだから、こ
  れに匹敵する大物は天照大神だとする説はわかりやすく説得的だ。
   「森」を外から見ることが肝要だ。

   ここで注意しないといけないのは、倭迹迹日百襲媛命のカリスマ性が一方で「卑弥呼」とし
  て中国にとどろき、一方では「天照大神」となったのだが、「天照大神」が倭迹迹日百襲媛
  命と同時代と考えると間違いなのだ。倭迹迹日百襲媛命のカリスマ性はもう「天照大神」と
  して神話の世界の存在となってしまったのだ。私は神武天皇以前に「天照大神」が存在する
  神話が後に作りあげられたと解釈する。つまり、「天照大神」に関しては時代的同一性を問
  うても意味がなく、天照大神 = 卑弥呼 = 倭迹迹日百襲媛命は成立すると思う。
   (キリスト教の「三位一体」よりはわかりやすいと考える。)

     出雲博物館   卑弥呼の鏡
         古代出雲歴史博物館           卑弥呼が所有したという鏡
         膨大な銅鐸と銅矛を所蔵
     

   それでは、吉備津彦 = スサノヲも正しいのかというと、どうも私は違うように思える。
   スサノヲは神話ではなく、やはり「国譲り」以前に、神武天皇以前に実在しないと辻褄が合
  わない。
   「記紀」に記されているスサノヲの高天原追放が怪しい、いや虚偽だとするなら、アマテラ
  スとスサノヲが姉弟だとする「記紀」に立脚するのも矛盾というものではないだろうか?
   私見を述べると、アマテラスとスサノヲは姉弟ではないと考える。
   スサノヲはアマテラスと姉弟どころか、イザナギとイザナミの子ではなく別の一族だと推論
  する。別の一族だからこそ乱暴狼藉をはたく不肖の弟という濡れ衣着せて高天原から追放
  してもかまわないのだとされたのだろう。

   そうはいうものの、「日本書記」すべてが歪曲されているわけではなく、神武東征以前に
  倭国を統治していたのは饒速日命(ニギハヤヒ)だということは信憑性が高いと思う。
   その3では敢えてカットした部分も含めて再度引用しよう。

     「天皇、素(もと)より饒速日命は是天(あめ)より降(くだ)れる者(かみ)と
     いふことを聞しめして、今し果たして忠効(ただしき)を立てしかば、褒めて
     寵(めぐ)みたまふ。此(これ)物部氏が遠祖(とおつおや)なり。

                                 ~ 「日本書紀」~ ( )内加筆

   饒速日(ニギハヤヒ)が物部氏の先祖であると言っている。
   では、盤石神社の縁起にあるニギハヤヒが大和に入る前、ニギハヤヒはどこからやってき
  たのだろうか?ニギハヤヒが治めた大和(奈良県桜井市)の箸墓(はしはか)古墳から吉備
  王国の土器、綾杉紋、鋸歯(きょし)紋の装飾が出土することから中見氏はニギハヤヒが
  吉備王国からやってきたと結論づける。
   その3でふれたように「先代旧事本紀」にはニギハヤヒは「饒速日尊、天より天御瑞宝受
  来る」と記述され、天御瑞宝 = 十種神宝を授かっている。スサノヲも十種神宝を携えて地
  上に降りたと考えられる。ニギハヤヒとスサノヲはつながりがありそうだ。

   この件はひとまず置くとして、「出雲風土記」にはスサノヲのヤマタノオロチ退治が一つも
  登場しない。その理由はヤマタノオロチ退治が出雲ではなく吉備だったからだと中見氏は説
  く。
   吉備津彦が八大龍王信仰を持つ百済出身の出雲・たたら勢力と戦ったのがスサノヲのヤ
  マタノオロチ退治だと中見氏は言う。
  (後代、時系列が混同されたと考えないと辻褄が合わない)
   この時系列の矛盾はともかく、吉備と出雲は敵対勢力であり、オオクニヌシがスサノヲの
  娘をめとったことは、いわば同盟成立ではないかと思われる。「薩長同盟」の古代版という
  ことではないだろうか?
   そんな敵対勢力をも同盟させてしまうオオクニヌシを祀る出雲大社は、男女の縁結びを超
  えたもっと広い意味でも「縁結びの神様」ではないのだろうか?

   中見氏は、十種神宝所持の共通性、八大龍王信仰とヤマタノオロチ退治の類似をもって、
  ニギハヤヒ = スサノヲ = 吉備津彦で一件落着としたいようだが、そうするとアマテラス
  同様スサノヲも時間的同一性を超えた神話の世界の存在となってしまう。
   どうも腑に落ちないと思っていたら、ニギハヤヒはスサノヲの息子だという説があるよう
  です。
   十種神宝を共に所持している共通点からこの説はかなり有力だと考えます。
   出雲のたたら勢力が百済の出身ならスサノヲも朝鮮半島出身でスサノヲの本名はフツ
  シ、ニギハヤヒの本名はフルというそうだ。
   神武天皇とニギハヤヒの関係を考慮するに、スサノヲ、ニギハヤヒはイザナギと
  イザナミとは全く別の一族であることは間違いないようだ。

   
   持統天皇(女帝)と天照大神と一体化を目論んだ藤原家にとって天孫降臨以前に倭国を
  支配していたスサノヲやニギハヤヒ、およびその末裔、物部氏は邪魔な存在でしかなかっ
  た。
   だから、「記紀」の実質的編纂者と言われる藤原不比等はスサノヲをイザナギ系列に組み
  込み、悪神に仕立てあげたのだろう。

   古代出雲大社の支柱が見つかり、我々の想像以上に古代出雲大社は強大な勢力を誇っ
  ていたとが明らかになり、にわかに出雲勢力、スサノヲ及びその末裔、物部氏は注目を集
  めている。

   「古代史の樹海」はまだまだ深いのです。

                         (つづく)
  

    箸墓古墳
                       箸 墓 古 墳








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八百万の神々 第一回 出雲大社 その4 

 



 〔スサノヲとオオクニヌシ〕
   
   大国主神(オオクニヌシ)は素戔男尊(スサノヲ)の娘、須勢理毘売命(スセリビメ)を正妻
  としている。何でもたくさんの妻をめとったそうで子供の数は180を超えるという。
   スサノヲはオオクニヌシが娘婿たり得るか試すが如く様々の試練を与えた。
   オオクニヌシはこれら試練をスセリビメの手助けを借りて乗り越える。  
   出雲大社が「縁結びの神様」と言われる起源はここに求められるのだろう。
   もっともオオクニヌシがたくさんの妻をめとったからかもしれないが。
   出雲大社は男女の縁結びだけでなく様々な縁結びの神様と言われ、「神在月」に全国の
  神々が出雲大社に集まって会議してこれを決めるとされている。
   これについての私なりの解釈はスサノヲの正体が明らかになってから述べます。


   スサノヲとオオクニヌシについて絵本はどのように扱っているのか?

    須佐之男は外に出て客をうかがい告げた。
    「あれは大国主の命だぞ」
    すぐ見ぬいて 「へびの室に案内してやれ」 姫に命じた。
    そこは大へび小へびのひしめきあうおぞましい部屋である。
    須左之男は姫が大国主を好いているらしいことを知ってきげん
    をそこねたのであった。

 
     ~ ナルホド、いつの世も父親は娘が連れてきた男は気にいらないのですな ~
   
    姫は気が気ではない。
    しかし、父親の言葉にはむかうこともならず、大国主をへびの室
    の戸口までいざなうと「へびの布」とよばれるものをぬいでわたした。
    「もしへびがおそってまいりましたら、この布を三度ふって下さい」
 

   大国主神 ヘビ

    大国主が部屋にふみ入ると あたりはとぐろをまき、かまくびをもたげ
    からまりあってはのどをならすへびのむれでもう生きたここちもない。
    うえたへびどもは えものに気づくとおともなくせめぎよせてきたが、
    大国主がとっさに布をふると こうべをたれてしりぞいてゆくのであった。
    そこで大国主はゆっくり旅のつかれをいやすことが出来たのである。


   ことなきを得た大国主に驚いた須左之男は「こよいは、あの男をむかではち
  の室へとめよ」と姫に申しつけるが、またもや大国主は姫の渡してくれた
  「むかではちの布」で大ムカデと蜂を撃退して難を逃れる。 

   大国主神 ムカデ

   
   大国主は蛇やムカデや蜂の室に閉じ込められるという試練を乗り越えて妻をめとったのだ
  が、これら試練を乗り越え偉大なる大国主に成長したとも読める。
   絵本の結びはこうなっている。

    「おまえがうばった太刀と弓矢で、兄弟たちをせいぜいおいはらうがよい。
     そうして国の神となり、やしきを築きわしの・・・ 
     わしの娘をしあわせにしてやってくれ」

    まもなく大国主の命は出雲の国に帰ると、須佐之男の命の言葉通り
    兄弟である八十神たちを追放して末ながく国を治めることになったのである。


     ~ 以上、出典 引用 赤羽末吉 絵 舟崎克彦 文 「すさのおとおおくにぬし」~ 

   絵本の原典とおぼしき「古事記」にもこの件は記されている。
   ここでオオクニヌシが6つの名前を持っていることを思い出してもらいたい。
   つまり、大国主神 = 葦原色許男命(あしはらのしこおのみこと)として以下読んで下さい。

    「 『 こは葦原色許男命と謂ふぞ 』とのりたまひて、すなわち喚(よ)び入れて
     その蛇の室に寝しめたまいき。ここにその妻、蛇の比礼をその夫に授けて云わく
     『 その蛇咋(く)はむとせば、この比礼を三度拳(ふ)りて打ち撥(は)いたまえ 』
     といいき。かれ教えの如せしかば蛇自ら鎮まりき。かれ、平たく寝て出でたまいき。
   
     また来る日の夜は呉公と蜂との室に入れたまいき。また呉公蜂の比礼を授けて
     教うること先の如し。かれ平たく出てたまいき。」
     
                                   ~「古事記」~
   
   「神社仏閣に隠された日本史の謎と闇」の編著者、中見利男氏は「蛇の比礼 蜂の比礼」
  に注目する。前回掲載の「十種神宝」の左の下から二番目と一番下をもう一度ご覧下さい。
   古事記のいう「蛇の比礼 (呉公)蜂の比礼」こそ「十種神宝」そのものではないか
 と中見氏は指摘する。
(形状は違うが布で蛇らを撃退できるはずなく、名前の類似に注目
  したようだ。因みに呉公とはムカデのこと)
   スサノヲの娘、スセリビメがオオクニヌシに「蛇の比礼」「蜂の比礼」を授けたことになって
  いるが、実際はスサノヲが授けたも同然だろう。
   つまり、スサノヲは「十種神宝」を持っていたと中見氏は説く。
   これは「記紀」の記述と全く矛盾するのであります。  
   「記紀」ではスサノヲは乱暴狼藉の罪を償うために身ぐるみ剥がされ、髭と手足の爪を切ら
  れ(「日本書紀」では爪を剥がされ)高天原を追放されたことになっているからです。
   空海が残した「十種宝高野山本」にも天照大神が十種神宝を授けたと記載されている。
   スサノヲは悪神として高天原を追放されたのではなく十種神宝を携えて地上に舞い降りた
  という仮説が成り立つというわけだ。
   そうすると、「日本人の原罪」というべき「天津罪」を背負わさせられたスサノヲが身ぐるみ
  剥がされて高天原を追放されたという「記紀」の記述の方が怪しくなってくる。
   スサノヲはいわば濡れ衣着せられて貶められたのではないか?
   これは現代に置き換えた方が腑に落ちるだろう。
   現体制を根こそぎ変えてしまうほど力のある政治家は、東京地検特捜部に狙い撃ちにさ
  れ貶められるのと同じ構造だと思う。
   なぜ、「記紀」編纂者はスサオヲを貶めなければならなかったのかはスサノヲの正体を明
  らかにした次回に譲るが、スサノヲが呪術を用い、あらゆる天下人が追い求めた「十種神
  宝」を携えていたとしたら、やはり、スサノヲは「もの凄い力を持っていた」という私の幼少
  時からの直観もあながち間違いではあるまい。

   さらにスサノヲは娘婿への試練を課しただけでなく、オオクニヌシに呪術を伝承したのだと
  私は推論する。

   ようやく“ 十種の神宝 ”が揃ってきたことから、次回はスサノヲの正体に迫ろうと思う。

                                        (つづく)




  



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八百万の神々 第一回 出雲大社 その3

   



   スサノヲは悪神なのか?
   スサノヲの正体を探る前に「十種神宝」と「スサノヲとオオクニヌシ」についてふれておかな
  くてはなるまい。
   「スサノヲとオオクニヌシ」は有名であるが、「十種神宝」とは何か?


 〔十種神宝〕

   十種神宝は行方が定かではないが、三種の神器より古いものだといわれる。
   文献にも記載され文献学たる古代史もその存在を否定していない。

    「汝の先考饒速日尊、天より天御瑞宝受来る。比を以て鎮と為し、年毎に仲冬
     中寅を例と為す有可事を行い永に鎮祭と為す。所謂御鎮祭是なり」

                                     ~ 「先代旧事本紀」~
   
   ここで言う天御瑞宝(あまつしるしのみずたから)が十種神宝であり、これを奉献した「汝」
  こと宇摩志麻治命が毎年、仲冬(しもつき)に恒例として天皇のために鎮めの祭を行ったと
  いうことです。「汝の先考」、すなわち亡父、饒速日尊(ニギハヤヒ)は「日本書紀」にも記さ
  れている。

    「天皇、素(もと)より饒速日命は是天(あめ)より降(くだ)れる者(かみ)と
     いふことを聞しめして、今し果たして忠効(ただしき)を立てしかば、褒めて
     寵(めぐ)みたまふ」
                                 ~ 「日本書紀」~ ( )内加筆
   
   天皇(神武天皇)は、天神に遣わされたニギハヤヒがすでにこの国を統治していたことを
  承知していたというわけです。     
   饒速日命が降臨した河内国の磐船(いわふね)神社の縁起にも伝えられているという。

    「天孫降臨に先だち、日本の国の中心である現今の奈良県大和の国に入らんとして
     三十二人の伴緒を率い十種瑞の神宝を奉持して天翔り空翔り天磐樟船(あめいわくす
     ぶね)に乗りて河内国川上哮ヶ峰に天降った」
      
   ニギハヤヒが誰のことを指すのかは諸説あり錯綜することからひとまず置くとして、十種
  神宝は呪術に使うもので死者さえも蘇生させるという。


      十種神宝

               ― 出典 「神社仏閣に隠された日本史の謎と闇」-

   
   時代は下り、十種神宝は戦国から安土桃山時代、時の権力者の間を渡り歩く。
   松永久秀(弾正)から織田信長、信長から明智光秀、もしくは細川幽斎を経て豊臣秀吉が
  天下を取った際には秀吉が手中に収めたらしい。
   手中に収めたものが天下人となる?十種神宝。
   当然、徳川家康も天海に命じて十種神宝を復活させたとか。
   (天海=明智光秀説をとるなら、これは合点がいく)
   「失われたアーク」の如く天下人を魅了してやまない十種神宝。
   いやいや、戦国武将だけでなくかの空海もこの十種神宝を転写し「十種宝高野山本」とし
  て高野山に代々伝え残しているそうだ。
   十種神宝を所有するという神社は全国に点在するが、その真偽のほどは定かでは
  ない。 

                                    (つづく)
 





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