素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

小林よしのり 「 新・堕落論 」 を読む 後編

 



 ニーチェは道徳上の奴隷一揆を作り上げたのはキリスト教であって、弱者のルサンチマンが
作った宗教だとしている。
 さはさりながらニーチェは、イエスは否定しておらず、パウロ以下弟子たちが作り上げた「三
位一体」、「聖母受胎」、「天国」、「地獄」はウソだとしている。
 
 このあたり副島隆彦氏はさらに明確に説いている。

  ニーチェはキリスト教会(イエズス会)を主敵として生きた思想家だ。
  世の中では、空想家(空無家)のように生きたと思われているが、
  本当は現実重視の保守思想家である。

    ~ 副島隆彦 著 「ニーチェに学ぶ 『奴隷をやめて反逆せよ!』 ~



 ニーチェもバーバリアン・イルミナティー(注)の一員だったという説をとるなら、ニーチェの言
説は実に理にかなったことだ。なぜなら彼らはバチカンと闘ってきたのだから。

  (注)・・・今日言われるイルミナティーではない。本来のイルミナティーは、哲学者、
       科学者の集団。初代グランドマスターは、ピタゴラス、ゲーテもライプニッツ
       もヘーゲルもグランドマスターだった。

 なぜ、今日の日本にニーチェが重要かと言うと、この件に端的に表れている。

  「こういう《反感》(ルサンチマン)をもった人間どもは、必ずや
   ついにはいかなる貴族的種族よりも怜悧(れいり)となる」

                ~ フリードリッヒ・ニーチェ ~
  
                          ( )内加筆

 小林氏は怜悧を「賢いこと、利口なこと」と言っているが、もっと言うと小利口ということだ。
 別にニーチェに感化されたわけでもないだろうが、三島由紀夫は現代日本を見切っていたか
のように語っている。当ブログでも世間でも何度も引用されているが、今一度、引用しよう。

  私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」
  はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その
  代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、
  或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、
  私は口をきく気にもなれなくなっているのである。

                 ~ 三島由紀夫 「果たし得てゐない約束」 ~


 ここで「抜け目がない」がずばり怜悧と符合するだろう。
 
 今日、賢い、利口は「スマート」と換言され、肯定的に評される。
 実際、処理速度とその正確さと効率はIT時代以降、格段に進歩しているのだから「スマート」
は称揚されて当然だ。本来、弱者であるにもかかわらず、この「スマート」を手に入れてしまった
人々が怜悧となるのは当たり前かもしれない。
 第2章「スマホの明るい堕落」、第11章「イノベーションと家族動機」で小林氏が取り上げてい
るのは必然だといえよう。
 それではこの怜悧(スマート)が知的で知恵に富んでいるかというと疑問を呈さざるを得ない。
 これと関連して小林氏があとがきで述べている。

  堕ちて堕ちて、堕落の極致に、真実を求めない社会がやってきた。
  「ポスト・トゥルース」、「ポスト真実」の時代に入ったと言われる。
  もはや真実も事実も望まない人々が発生しているのだ。
  フェイクでいい、偽情報でいい、信じたいことしか信じない、真実は知りたくない、
  事実はどうでもいい、都合の悪い真実なんか直視したくない、そんな人々が目
  立ってきた。

                ~ 小林よしのり 著 「新・堕落論」 あとがき ~



 西部氏の絶望、野沢 尚の危惧した時代を現実はとっくに通り過ぎてしまったのだ。
 情報と知識と小知恵と小利口は、世界中にばらまかれたが、人々が知恵と見識を蓄えたわ
けではなく、反知性主義と言われるように感情が幅を利かせ、自己肯定と自己承認欲求ばか
りが肥大しただけだった。
 そんな彼らが小林氏曰くの「いいね」でまき散らす偽情報がSNSの中で充満している。
 この中の一部の人々は、敵を見つけて攻撃するのが「保守」であると勘違いしている。
 それら一群の人々こそネトウヨだと小林氏は言いたいようだ。本書では明言していないが、
強烈な皮肉が帯には込められている。

  ネトウヨさん、ありがとう!
  今こそ“ ネトウヨ ” に謝ろう。

                ~ 小林よしのり 著 「新・堕落論」 帯 ~
 


 要するに「ネトウヨのおかげで本書を書くことができたよん」というからかいだろう。
 もちろん、事態は「トカトントン」で表現者が嘆いていればいいという生易しいものではなく、
社会全体がさらなる危機的状況に進んでいく、いや既に進んでいることを小林氏は結論づ
ける。

  しかし、現代は情報が溢れかえっている。その中から価値ある情報を
  「取捨選択」するリテラシーは、本来、現代人のより良く生きるための
  能力であるはずだ。
  だが、どうせ真実など知りたいと思っていない。信じたいフェイクで十分
  と思うほど人々が堕落しているのなら、リテラシーすら必要でない社会
  になっていくのだろうか。
  リテラシーが必要ない時代、権力を信仰しておけばいい時代、それは
  北朝鮮や中国、そしてナチスドイツの社会によく似ているではないか。
  人々は再び真実を希求する活力を取り戻すか?

           ~ 小林よしのり 著 「新・堕落論」 あとがき ~
  


 「リテラシー、リテラシー」と誰も彼も口にするが、内実はこんなものだろう。
 リテラシーなぞ自身が痛い思いをして価値の転換をする経験がないと身につかないものだ。 
 そんな非効率で勇気のいることを敢えてする人が現代にどれほどいるというのか?
 小林氏はこう言って本書を締めくくっている。

  それでも日本人が浮上していくと信じるからこそ、こうして描いている作者
  がいて、それを読んでくれる人もいるというのは事実であり、真実に向かう
  糸口だと考えよう。

                   ~ 引用 同上 ~
 

  一方、自身のブログではこのように達観している。

   「立憲的改憲」は国民のための最期の戦いになるだろうし、
   これが失敗したら、その先は自分のための快楽のみで
   生きるしかない。
   トカトントンはわしのBGMになるだろう。

           ~ よしりんの「あのな、教えたろか」 2月9日 ~
 


 小林氏は「堕落」をキーワードにしている。
 映画 「 マトリックス 」 ではネオの影、反射としてエージェント・スミスが存在した。
 私はネオとエージェント・スミスの関係のように「便利」、「実利」、「効率」、「進歩」の影と
してこれら「堕落」があると思えてならない。

                               (了)




新・堕落論







スポンサーサイト
思想 | コメント:0 |

小林よしのり 「 新・堕落論 」 を読む 前編

 



 小林よしのり氏の漫画は、「戦争論」以降、読んでいない。
 何だかもう私とはズレてしまったような気がしたからだ。
 日々、絵コンテ、ネームというより具体的かつ直截的で訴求力の求められる仕事をしている
同氏の思考は文章を書いている人よりもより強固かつ強靭になっているのかもしれない。
 近年、再び彼の言動を注視している。

 「新・堕落論」の白眉は、冒頭の「太宰 治のトカトントン」と最終章「弱者のルサンチマンゆ
えに」であろう。
 第16章「オーディエンスかロボット天皇か」も新鮮な指摘であったが、第2章「スマホの明る
い未来」、第3章「朝鮮飲みで悪いか?」、第7章「すぐそこにある堕落」、第8章「教育勅語で
堕落は止まるのか?」、第9章「日本は今も八つ墓村」等々は、共感するが、どれも既知のこ
とであり、昔の「ゴー宣」のテイストの横溢を懐かしむにはいいが、どこか喰いたりない。

 敗戦直後の太宰 治や坂口安吾を題材にとりあげるのは、ポストモダン的引用というよりは、
戦後復興、高度経済成長、昭和元禄、一億総中流でまんまと偽装された戦後の価値崩壊が
より深刻な事態をむかえているからに他ならない。 

 「太宰 治のトカトントン」で小林氏が託したのは、「(全く動かない現状に対して)もうどうでも
いいのではないか」という無力感、挫折感、虚無感である。
 このような表現者の挫折感・敗北感は戦後まで遡らなくても我々は21世紀になってからも目
撃している。シナリオライター、野沢 尚氏の自殺だ。
 彼の自殺の理由は明らかではない。
 「砦なき者」では、テレビキャスター(役所広司)が「気まぐれな視聴者に振り回される視聴率
などどうでもいい。俺が見たいものを作るんだ」という敗北感の先の開き直りをテレビドラマにし
てしまったのだから、「砦なき者」というより「テレビの掟なき者」として野沢 尚は危うい挑発と
扇動を試みたのだ。
 「砦なき者」放送から約3ヶ月後、NHKドラマ「坂の上の雲」の第1稿を書き終えた時、日本の
シナリオ界の「坂の上の雲」が見えたはずの彼は死を選んだ。
 我々ブロガーとかたいした実力のないものは救いがある。
 斯界の「坂の上の雲」をはっきりと見据えたものの虚無感、絶望感は大きい。
 三島由紀夫は自己の作品を「排泄物と変わりない」と自嘲し、三枝成彰氏はトイレに座りなが
ら「50歳以前に作曲した自分の曲は今、流したウンコと変わらない」と言い放った。 



 21世紀と言わずとも、今年になってからも我々は「言論は虚しい」と言って自決した西部 邁
氏を目の当たりにしている。
 西部氏になぞらえるなら「トカトントン」は消極的ニヒリズムと最も消極的ニヒリズムの間で響
きわたる不吉な半鐘だ。
 つまり、太宰の「トカトントン」はどうしたってニヒリズムに辿りつく。
 終章「弱者のルサンチマンゆえに」では、ニーチェを引きながら本書は核心へと迫っていく。

  ニーチェはヨーロッパの人々を「群畜」という。
  人間の高貴さを失った家畜の群れと見えたようだ。

            ~ 小林よしのり 著 「新・堕落論」 ~


 「群畜」という言葉は、第10章「オルティガの 『大衆の反逆』 」でも取り上げているように
「大衆」という言葉に置き換えられる。
 なるほど西部 邁氏がニーチェを「隠れ保守」と位置づけるのも頷ける。
 二ーチェの「道徳の系譜」を引きながら小林氏は現代日本人をルサンチマン(反感)の強い
弱者として看破する。


  「《反感》を持った人間は、正直でもなければ無邪気でもなく、また自分自身に対する
   誠実さも率直さももたない。
   彼の魂は横目を使う。
   彼の精神は隠れ場を、抜け道を、裏口を好む」

            出典 ニーチェ 著 「道徳の系譜」

  ルサンチマンの強い弱者は、正直さも無邪気さもない。
  自分自身をごまかしてしまう。 

          ~ 小林よしのり 著 「新・堕落論」 ~  
  
 

  「保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい。」
これは西部 邁氏が私淑する保守の泰斗、福田恆存の言葉(「保守とは何か」)だ。

                                  (続く)






  
思想 | コメント:0 |

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 後編

 


 

    最も消極的ニヒリスト、「大衆」(B層)がファシストを生み出すのだ。
    日本の現実の政治に戻ると、民主党の失敗が安倍ファシスト政権が生んだ。
    ワイマール時代の次ににナチスが台頭したように。
    安倍政権のアベノミクスの第3の矢は成長産業と言われるが、さして目ぼしいもの
   はないと考える。新自由主義、サプライサイド経済学の延長に過ぎないものがほとん
   どで、農業、医療、介護といってもこれは前政権から言われ続けていたものだ。
    ポストモダンの歴史家、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」が終わったのだから
   新しく歴史(未来)は作られなければならない。

    先日、事情通H氏とほぼ1年ぶりに偶然、再会しいろいろと語りあった。
    やはり、これから注目すべきはエネルギーであるが、来年3月から電力自由化となる。
    さらにいよいよ、石油は終わり水素社会になるといってもその水素は天然ガスから作
   られることから、石油が天然ガスに代わっただけではないか。佐野千遥氏の磁石による
   フリーエネルギーも理論的に正しくても実地には実現不可能であることが確認された。
    どうもまだ先は長いようだと語りあった。

    そうはいっても「 『 寿命120歳 』 は現実に! 」 で述べたように来年から寿命120
   才に延ばす薬の臨床実験が始まる。間もなく販売されるようになるだろう。
    しかも1日8円の費用なのだから誰でも寿命120歳時代を謳歌できるようになる。
    いくら遅くてもあと50年もすればおそらくフリーエネルギーは実現しているだろう。
    寿命120歳時代、50年は生存期間と考えられる。そうなったら資本主義は終わる。
    「もっとヤレ!ヤレ!」と言っても働かなくなるし働く必要もなくなるからだ。
    江戸時代の八っあん、熊さんの労働時間に逆もどりだ。つまり労働時間は1週間に2、
   3日で済むようになるだろう。
    有り余った時間、人々は遊ぶようになるが、この時、底が抜けてしまった「遊びの堕落」
   はメルトダウンならぬメルトスルーするのか、それとも・・・・・。
    さらに寿命120歳時代になれば、人種でなく遺伝子及び犯罪歴で差別される時代が
   到来するだろう。映画「ガタガ」、村上 龍「歌うクジラ」の世界の現実化だ。
    その時、人権は無力化し「優生学」が結局、勝利するのか、それとも新たな価値が生
   まれるのか?

    現在、資本主義一人勝ちを信じて疑わない「大衆」の群れによる、「儲けるが勝ち」の
   新自由主義の延長の思考が世界に広がり支配的に思われる。
    でも、それは20世紀的価値であってこれら科学技術が実現した21世紀的価値で
   はない。(実現しなければ多くのSFが描くようなディストピアの世界だ。) 

    あまり指摘されないが、今こそ「儲けるが勝ち」ではない、21世紀の哲学・思想が必
   要とされている。今のところまだ、21世紀の哲学・思想は現れていないと考える。

    本記事をもって期待と不安、希望と危惧が交錯する2015年の最後の記事とさせてい
   ただきます。

    乱筆、乱文の当ブログを1年間、お読みいただきありがとうございました。
    来年もよろしければおつき合いください。

    
                                            (了) 



早春スケッチブック
このドラマを観てシナリオライターを志した
人は少なからず存在する。
私も40代でこのドラマと「再会」しなけれ
ばこのブログをやっていなかっただろう。




  






思想 | コメント:0 |

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 中編

  

  

    経済環境が規制緩和とグローバリズムによって厳しさを増す昨今、その反射か、
   「遊び」がゆるゆる、ぐだぐだではないかという思いから「遊びの堕落」について述べて
   きた。「遊び」と「現在」がどう結びつくかさらに検討しよう。
    ヨハン・ホイジンガは西欧における「遊びの精神」の広く深い堕落がナチスを生んだと
   唱える。
    これは思想の八艘飛びであり、正確には「遊びの堕落」 ⇒ 「大衆」の増大⇒ ナチス
   の台頭ということになろう。
    ご存知とは思うが、ここで「大衆」とは世間一般の人々のことを意味するのではない。

     つまり、どれほど大きな所得を有していようとも、またいかに高い地位に
     就いていようとも、「あそび」のピュエリリズム(注)に与するような精神の
     持主であるのなら、その人はマスマンつまり大衆人だということである。
     こうした大衆人たちによって指導され、そして追随される「極度に無責任
     な大衆行動の危険」が「異常なまでに増大している」。それに抗しえない
     と知りつつも、抗してみせるのが真の「あそび」だとみなして、ホイジンガ
     は 『 朝の影のなかに 』 を執筆したのだと思われる。
    
       ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~  
 

       (注) 判断能力の発達段階からみて、それ相応以下にふるまう社会、
           子供を大人にひきあげようとせず、逆に子供の行動にあわせて
           ふるまう社会の精神的態度、いわば文化的小児病のこと。              


    安倍政権は発足時からファシスト政権とも言われる。
    80年代よりも「現在」の方が大衆化が進んでいる。
    政府がメディアが官僚が全体主義(ファシズム)を推進しているようで実は他ならぬ
   「大衆」がファシズムの下地作りをじわじわとしているのであります。
    素人バンドの瑣末な出来事に見てとれる「遊び」の底抜けのようなだらしなさは「大
   衆化」が高度に進展してしまった一例といえるだろうと言ったら言い過ぎか? 
    大衆化 ⇒ ファシズムの台頭は「遊びの堕落」だけでは語れない。

    ヨハン・ホイジンガが広告業界を席巻していた頃、ある映画が公開された。
    森田芳光監督の「家族ゲーム」だ。
    この映画についての長部日出雄氏の批評は、今一度注目に値する。

     作者がそう意識していたかどうかは別として、「今日では、すべてのシス
     テムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレ
     ーションというハイパー現実に吸収されてしまう。今やシミュレーション原
     則が、古い現実原則に代わって我々を支配する、合理性は消え去り、
     モデルが我々を産み出す。今やイデオロギーなるものではなく、シミュラ
     ークルしかない」(今村仁司・塚原史訳「象徴交換と死」)とジャン・ボード
     リヤールが言う記号消費社会の構造を、これほど鮮明に、具体的に描い
     た映画をほくは初めて見た。

     この映画が描いているのは、モノをそれ自体としてより記号として消費す
     る今日のハイパー現実―― すなわち現実の複製―― であり、シミュラー
     クル(模像)としての家庭であり、作者はそのなかに、いささか時代錯誤の
     異人を侵入させることによって、なにが起こり、どういう結果になるか、とい
     うシミュレーション(模擬実験)を試みたのだ。

          (中略)

     受験戦争も、社会的な差異表示記号を消費する円環の体系の一環に過ぎ
     ない。現代のシミュレーションを管理しているコードの転換を図らなければ、
     そのあとにくるのはファシズムであろう、と。

                     ~ イメージフォーラム 1984年3月号 ~


   
    前段のボードリヤールの言説は記号論が流行した80年代を象徴するもので21世
   紀現在からみるとやや疑問符がつく。人はどんな状況でもたいがいの状況は順応す
   るもので例えボードリヤール曰くの通りでも敢えて警鐘を鳴らすほどのことではない
   のではないかとも思えてくる。
    最終パラグラフに述べられている、記号化されようとも何事も消費の対象でしかな
   いという一節は「消費」がますます拡大する現在、凄く重要だ。「消費の対象でしか
   ない」という態度は「消費」以外については無関心、無責任を決め込んでもいいと
   換言できる。このスタンスも「大衆化」を助長するものだろう。
    RPGは普通に日常生活に馴染んでいるが、これは入口に過ぎない。
    行き着く先はビッグデータを駆使した統計学に基づくシミュレーションだと考える。
    これが不確実な需要を探るうえで最も正確かつ効率がいいのだろう。
    「現代のシミュレーションを管理しているコードの転換」―― これら統計学の外
   にも重要な事柄が存在することを認識することだ。
    それが出来ないならビッグデータならぬビッグブラザーに支配された世界、すな  
   わち徹底監視・管理の全体主義的世界となろう。
    そんな時代、人々はどんな心性を示すのだろうか?


    「家族ゲーム」と同年、ある忘れ難いTVドラマが放送された。
    山田太一作「早春スケッチブック」だ。
    視聴率ひと桁でいつ打ち切られてもおかしくない状況だったが最終回まで放送さ
   れた。先日、ケーブルTVで放送されていたのでつい観てしまった。
    結論から言うと、このドラマは今こそ再見されるべきドラマだ。
    描かれるのは河原崎長一郎演じる信用金庫勤務のサラリーマンとその妻役の岩
   下志麻の小市民的世界を山崎 務演じる闖入者たる元カメラマンがかき乱していく
   様だ。消極的なニヒリストたる元カメラマンは小市民の生活を罵倒、軽蔑しつつ同じ
   く小市民たる視聴者に唾を吐く。低視聴率なのは当然か。
    小市民は登場するものの、前述の「大衆」(B層)は出てこないが、この消極的ニ
   ヒリストの存在は今こそその存在意義が鮮明となるだろう。
    「遊び」が堕落し、シミュラークルの世界から抜け出せない現代の「大衆」(B層)
   に元カメラマン(山崎 務)の言葉は届くだろうか?それとも彼ら「大衆」はその精神
   がメタボ過ぎて言葉は届かないのだろうか?

     「気の小っちゃい、善良でがんじがらめの正直者め!」

     「人でも物でも、本当は見ていない」

     「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」

     「人間は、給料の高を気にしたり、電車がすいていて喜んだりするだけの
      存在じゃない。親父に聞いてみろ!心の底までひっさらうような物凄い
      感動したことがあるかってな!」

     「自分をみがくんだ。世界に向かって、俺を重んじよ、といえるような男に
      なるんだ」
    
     「ああいう男が人を愛するなんてことができるわけがねぇ。
      自分のことばかりよ。心ン中のぞいたら、安っぽくて、簡単で、カラカラ
      音がしてるだろうぜ」

            ~ 山田太一 作 「早春スケッチブック」 シナリオ ~


                                   
                                        (つづく)
  

     
  




思想 | コメント:0 |

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 前編

    


    今年も押し迫り、1年を振りかえるという恒例行事の時期となりました。
    大村さん梶田さんノーベル賞、ラグビーW杯日本初の3勝、イスラム国による日本人殺
   害、マイナンバー、安保法案成立、TPP大筋合意(と日本だけ言っている)、東京五輪エ
   ンブレム撤回、2度にわたるパリ同時テロ、押し寄せるシリア難民、COP21採決等々。
    いろいろなことがあったが、それらは他の人に委ねるとして私はもう少し遠くから望遠鏡
   で「現在」を眺めてみたい。望遠鏡といっても遥か彼方からではなく、この20~30年、
   オンリー・イエスタデーから2015年現在を眺めてみよう。
    あの頃から世の中、随分と変わったことは間違いないのだが、一面においてあの頃の
   事態がより深化しただけとも受けとめられる。
    その一つとして「遊びの堕落」が挙げられるだろう。
    「遊び」を哲学的に論じる時、その範囲は我々の想像よりもはるかに広い。
    「宗教」、「科学」さえその範疇に入るそうだが、ここは一つわかりやすくいこう。
    
    スポーツ、ギャンブル、演劇、絵画、音楽等の芸術、これら「遊び」に関しては規則、若し
   くは理(ことわり)が存在する。スポーツ、ギャンブルに規則があることはわかりやすいが、
   もっと自由であるはずの芸術は別物と思いがちだ。でも、定型というか基本は存在する。
    理(ことわり)が一番、わかりやすいのは音楽で和声など他の芸術より厳然と決まって
   いる。だからタマに集まって演奏するオヤジバンドでもこの理(ことわり)、すなわち楽理な
   くして音楽は成立しない。
    つまり演奏レベルがどうあろうと楽理を無視しては「遊び」たり得ないわけであり、「そん
   なのいいよ、アドリブだよ」というような事態を捉えて「遊びの堕落」と言ってしまいたいと
   ころだが、それではあまりに矮小化されてしまうことから、ここは一つ「遊び」の哲学者、
   ヨハン・ホイジンガが唱える「ホモ・ルーデンス」(遊ぶものとしての人間)という視点から
   「遊び」を定義してみたい。「遊び」は次のような形式的特徴を持つという。

     ① 自由な行動
 
     ② 日常の生ではない

     ③ 定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる

     ④ リズムとハーモニーで充たされている

     ⑤ 固有の規則がある

     ⑥ 秘儀や仮装のような秘密を持っている

     
    遊びなんだから「自由だよ」というのは実に狭い見方といえる。
    自由であるが同時に規則が存在するということだ。
    ① 「自由な行動」を除けば、茶道などは典型的な「遊び」といえよう。
    茶道は作法でがんじがらめのようで本当は基本さえ押さえていれば、結構、自由なん
   だそうだ。正座しなくても椅子に腰かけたままでもいいそうだ。これら自由な茶道は坂本
   龍一氏らが実戦している。
    
    ヨハン・ホイジンガは20世紀初頭に既に「遊びの堕落」が始まったと説く。
    そうだとしたら、オンリー・イエスターデーの80年代、日本でポストモダンが華やかりし
   頃、「遊び」はどうだったのだろう。 

     いずれにせよ、現代の「あそび」が、日本のものをはじめとして、ホイジンガの
     示した諸特徴から大きく逸脱していることは論を俟たない。軽薄短小の今様
     の「あそび」は、商業主義によって方向づけられているために自由ではなく、
     日常生活のなかにずかずかと踏み込んでくるために非日常の領域になく、
     社会全域に夜昼なく広がっているために時空の限界を失い、機械の発達の
     ためにリズムとハーモニーが生き生きとした活力を持たず、イノヴェーション
     が絶え間ないため規則が動揺させられ、そしてそれらの総合的結果として、
     競技も演劇も祭祀もかつてのような真剣な「あそび」ではなくなっている。
     
         ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~


    この頃、文化系の学生の間では広告業界は就職先として花形の一つであった。
    気まぐれな消費者を捉えて「大衆」ではなく「分衆」、「小衆」と呼称し、人々の多様化、
   差異化した好みを軽薄短小で面白主義の包装紙に包んで商品化することが称揚された。
    (今考えると、キャー、恥ずかしい!の世界だ) 
    そんな広告業界でヨハン・ホイジンガはもてはやされるようになった。
    彼らがホイジンガの「遊びの精神」引き合いに出すのは悪い冗談ではないかと西部氏
   は説く。なぜなら20世紀初頭に芸術は「機械化、広告、センセーション」の影響を受けつ
   つ「直接に市場を目的とする」行為が目立ちはじめ、「遊びの堕落」が始まったとホイジン
   ガが指摘しているからだ。    
    広告業界に限らず、昔の表現だが、「ギョーカイ人」と呼ばれる人々は「遊び」の世界で
   仕事している。彼らは一応にプロを自認するが、同時に「日常の生でない」遊びを日常と
   していて、「定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる」遊びが終わ
   りのない遊びとなってしまっている。つまり、常に「遊びの堕落」と背中合わせに立ってい  
   るともいえよう。
    
    そんな「ギョーカイ人」がたまに集まって音楽を演奏しようとすると信じられないことが起
   こる。演奏曲の譜面を持ってこないどころか、練習してない、いや、聞いてすらないのに
   現場に望むという事態が起こったりする。
    これは「遊びの堕落」の堕落、つまり、「遊びの堕落」の2乗、底が抜けちゃった事態だ。
    この「ギョーカイ人」でも真摯に音楽に取り組んでいる人はもちろん多数存在するが、こ
   のような事態はホイジンガの「遊びの精神」を曲解している、若しくはそもそも知らない「ギ
   ョーカイ人」なら当然の帰結なのかもしれない。

    何とも些細なことを延々と述べているのか!
    いつまで経っても「現在」とつながらないじゃないか!

    まあ~、そう焦らずに。

                                      (つづく)







思想 | コメント:0 |
| ホーム |次のページ>>