素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 後編

 


 

    最も消極的ニヒリスト、「大衆」(B層)がファシストを生み出すのだ。
    日本の現実の政治に戻ると、民主党の失敗が安倍ファシスト政権が生んだ。
    ワイマール時代の次ににナチスが台頭したように。
    安倍政権のアベノミクスの第3の矢は成長産業と言われるが、さして目ぼしいもの
   はないと考える。新自由主義、サプライサイド経済学の延長に過ぎないものがほとん
   どで、農業、医療、介護といってもこれは前政権から言われ続けていたものだ。
    ポストモダンの歴史家、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」が終わったのだから
   新しく歴史(未来)は作られなければならない。

    先日、事情通H氏とほぼ1年ぶりに偶然、再会しいろいろと語りあった。
    やはり、これから注目すべきはエネルギーであるが、来年3月から電力自由化となる。
    さらにいよいよ、石油は終わり水素社会になるといってもその水素は天然ガスから作
   られることから、石油が天然ガスに代わっただけではないか。佐野千遥氏の磁石による
   フリーエネルギーも理論的に正しくても実地には実現不可能であることが確認された。
    どうもまだ先は長いようだと語りあった。

    そうはいっても「 『 寿命120歳 』 は現実に! 」 で述べたように来年から寿命120
   才に延ばす薬の臨床実験が始まる。間もなく販売されるようになるだろう。
    しかも1日8円の費用なのだから誰でも寿命120歳時代を謳歌できるようになる。
    いくら遅くてもあと50年もすればおそらくフリーエネルギーは実現しているだろう。
    寿命120歳時代、50年は生存期間と考えられる。そうなったら資本主義は終わる。
    「もっとヤレ!ヤレ!」と言っても働かなくなるし働く必要もなくなるからだ。
    江戸時代の八っあん、熊さんの労働時間に逆もどりだ。つまり労働時間は1週間に2、
   3日で済むようになるだろう。
    有り余った時間、人々は遊ぶようになるが、この時、底が抜けてしまった「遊びの堕落」
   はメルトダウンならぬメルトスルーするのか、それとも・・・・・。
    さらに寿命120歳時代になれば、人種でなく遺伝子及び犯罪歴で差別される時代が
   到来するだろう。映画「ガタガ」、村上 龍「歌うクジラ」の世界の現実化だ。
    その時、人権は無力化し「優生学」が結局、勝利するのか、それとも新たな価値が生
   まれるのか?

    現在、資本主義一人勝ちを信じて疑わない「大衆」の群れによる、「儲けるが勝ち」の
   新自由主義の延長の思考が世界に広がり支配的に思われる。
    でも、それは20世紀的価値であってこれら科学技術が実現した21世紀的価値で
   はない。(実現しなければ多くのSFが描くようなディストピアの世界だ。) 

    あまり指摘されないが、今こそ「儲けるが勝ち」ではない、21世紀の哲学・思想が必
   要とされている。今のところまだ、21世紀の哲学・思想は現れていないと考える。

    本記事をもって期待と不安、希望と危惧が交錯する2015年の最後の記事とさせてい
   ただきます。

    乱筆、乱文の当ブログを1年間、お読みいただきありがとうございました。
    来年もよろしければおつき合いください。

    
                                            (了) 



早春スケッチブック
このドラマを観てシナリオライターを志した
人は少なからず存在する。
私も40代でこのドラマと「再会」しなけれ
ばこのブログをやっていなかっただろう。




  






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望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 中編

  

  

    経済環境が規制緩和とグローバリズムによって厳しさを増す昨今、その反射か、
   「遊び」がゆるゆる、ぐだぐだではないかという思いから「遊びの堕落」について述べて
   きた。「遊び」と「現在」がどう結びつくかさらに検討しよう。
    ヨハン・ホイジンガは西欧における「遊びの精神」の広く深い堕落がナチスを生んだと
   唱える。
    これは思想の八艘飛びであり、正確には「遊びの堕落」 ⇒ 「大衆」の増大⇒ ナチス
   の台頭ということになろう。
    ご存知とは思うが、ここで「大衆」とは世間一般の人々のことを意味するのではない。

     つまり、どれほど大きな所得を有していようとも、またいかに高い地位に
     就いていようとも、「あそび」のピュエリリズム(注)に与するような精神の
     持主であるのなら、その人はマスマンつまり大衆人だということである。
     こうした大衆人たちによって指導され、そして追随される「極度に無責任
     な大衆行動の危険」が「異常なまでに増大している」。それに抗しえない
     と知りつつも、抗してみせるのが真の「あそび」だとみなして、ホイジンガ
     は 『 朝の影のなかに 』 を執筆したのだと思われる。
    
       ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~  
 

       (注) 判断能力の発達段階からみて、それ相応以下にふるまう社会、
           子供を大人にひきあげようとせず、逆に子供の行動にあわせて
           ふるまう社会の精神的態度、いわば文化的小児病のこと。              


    安倍政権は発足時からファシスト政権とも言われる。
    80年代よりも「現在」の方が大衆化が進んでいる。
    政府がメディアが官僚が全体主義(ファシズム)を推進しているようで実は他ならぬ
   「大衆」がファシズムの下地作りをじわじわとしているのであります。
    素人バンドの瑣末な出来事に見てとれる「遊び」の底抜けのようなだらしなさは「大
   衆化」が高度に進展してしまった一例といえるだろうと言ったら言い過ぎか? 
    大衆化 ⇒ ファシズムの台頭は「遊びの堕落」だけでは語れない。

    ヨハン・ホイジンガが広告業界を席巻していた頃、ある映画が公開された。
    森田芳光監督の「家族ゲーム」だ。
    この映画についての長部日出雄氏の批評は、今一度注目に値する。

     作者がそう意識していたかどうかは別として、「今日では、すべてのシス
     テムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレ
     ーションというハイパー現実に吸収されてしまう。今やシミュレーション原
     則が、古い現実原則に代わって我々を支配する、合理性は消え去り、
     モデルが我々を産み出す。今やイデオロギーなるものではなく、シミュラ
     ークルしかない」(今村仁司・塚原史訳「象徴交換と死」)とジャン・ボード
     リヤールが言う記号消費社会の構造を、これほど鮮明に、具体的に描い
     た映画をほくは初めて見た。

     この映画が描いているのは、モノをそれ自体としてより記号として消費す
     る今日のハイパー現実―― すなわち現実の複製―― であり、シミュラー
     クル(模像)としての家庭であり、作者はそのなかに、いささか時代錯誤の
     異人を侵入させることによって、なにが起こり、どういう結果になるか、とい
     うシミュレーション(模擬実験)を試みたのだ。

          (中略)

     受験戦争も、社会的な差異表示記号を消費する円環の体系の一環に過ぎ
     ない。現代のシミュレーションを管理しているコードの転換を図らなければ、
     そのあとにくるのはファシズムであろう、と。

                     ~ イメージフォーラム 1984年3月号 ~


   
    前段のボードリヤールの言説は記号論が流行した80年代を象徴するもので21世
   紀現在からみるとやや疑問符がつく。人はどんな状況でもたいがいの状況は順応す
   るもので例えボードリヤール曰くの通りでも敢えて警鐘を鳴らすほどのことではない
   のではないかとも思えてくる。
    最終パラグラフに述べられている、記号化されようとも何事も消費の対象でしかな
   いという一節は「消費」がますます拡大する現在、凄く重要だ。「消費の対象でしか
   ない」という態度は「消費」以外については無関心、無責任を決め込んでもいいと
   換言できる。このスタンスも「大衆化」を助長するものだろう。
    RPGは普通に日常生活に馴染んでいるが、これは入口に過ぎない。
    行き着く先はビッグデータを駆使した統計学に基づくシミュレーションだと考える。
    これが不確実な需要を探るうえで最も正確かつ効率がいいのだろう。
    「現代のシミュレーションを管理しているコードの転換」―― これら統計学の外
   にも重要な事柄が存在することを認識することだ。
    それが出来ないならビッグデータならぬビッグブラザーに支配された世界、すな  
   わち徹底監視・管理の全体主義的世界となろう。
    そんな時代、人々はどんな心性を示すのだろうか?


    「家族ゲーム」と同年、ある忘れ難いTVドラマが放送された。
    山田太一作「早春スケッチブック」だ。
    視聴率ひと桁でいつ打ち切られてもおかしくない状況だったが最終回まで放送さ
   れた。先日、ケーブルTVで放送されていたのでつい観てしまった。
    結論から言うと、このドラマは今こそ再見されるべきドラマだ。
    描かれるのは河原崎長一郎演じる信用金庫勤務のサラリーマンとその妻役の岩
   下志麻の小市民的世界を山崎 務演じる闖入者たる元カメラマンがかき乱していく
   様だ。消極的なニヒリストたる元カメラマンは小市民の生活を罵倒、軽蔑しつつ同じ
   く小市民たる視聴者に唾を吐く。低視聴率なのは当然か。
    小市民は登場するものの、前述の「大衆」(B層)は出てこないが、この消極的ニ
   ヒリストの存在は今こそその存在意義が鮮明となるだろう。
    「遊び」が堕落し、シミュラークルの世界から抜け出せない現代の「大衆」(B層)
   に元カメラマン(山崎 務)の言葉は届くだろうか?それとも彼ら「大衆」はその精神
   がメタボ過ぎて言葉は届かないのだろうか?

     「気の小っちゃい、善良でがんじがらめの正直者め!」

     「人でも物でも、本当は見ていない」

     「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」

     「人間は、給料の高を気にしたり、電車がすいていて喜んだりするだけの
      存在じゃない。親父に聞いてみろ!心の底までひっさらうような物凄い
      感動したことがあるかってな!」

     「自分をみがくんだ。世界に向かって、俺を重んじよ、といえるような男に
      なるんだ」
    
     「ああいう男が人を愛するなんてことができるわけがねぇ。
      自分のことばかりよ。心ン中のぞいたら、安っぽくて、簡単で、カラカラ
      音がしてるだろうぜ」

            ~ 山田太一 作 「早春スケッチブック」 シナリオ ~


                                   
                                        (つづく)
  

     
  




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望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 前編

    


    今年も押し迫り、1年を振りかえるという恒例行事の時期となりました。
    大村さん梶田さんノーベル賞、ラグビーW杯日本初の3勝、イスラム国による日本人殺
   害、マイナンバー、安保法案成立、TPP大筋合意(と日本だけ言っている)、東京五輪エ
   ンブレム撤回、2度にわたるパリ同時テロ、押し寄せるシリア難民、COP21採決等々。
    いろいろなことがあったが、それらは他の人に委ねるとして私はもう少し遠くから望遠鏡
   で「現在」を眺めてみたい。望遠鏡といっても遥か彼方からではなく、この20~30年、
   オンリー・イエスタデーから2015年現在を眺めてみよう。
    あの頃から世の中、随分と変わったことは間違いないのだが、一面においてあの頃の
   事態がより深化しただけとも受けとめられる。
    その一つとして「遊びの堕落」が挙げられるだろう。
    「遊び」を哲学的に論じる時、その範囲は我々の想像よりもはるかに広い。
    「宗教」、「科学」さえその範疇に入るそうだが、ここは一つわかりやすくいこう。
    
    スポーツ、ギャンブル、演劇、絵画、音楽等の芸術、これら「遊び」に関しては規則、若し
   くは理(ことわり)が存在する。スポーツ、ギャンブルに規則があることはわかりやすいが、
   もっと自由であるはずの芸術は別物と思いがちだ。でも、定型というか基本は存在する。
    理(ことわり)が一番、わかりやすいのは音楽で和声など他の芸術より厳然と決まって
   いる。だからタマに集まって演奏するオヤジバンドでもこの理(ことわり)、すなわち楽理な
   くして音楽は成立しない。
    つまり演奏レベルがどうあろうと楽理を無視しては「遊び」たり得ないわけであり、「そん
   なのいいよ、アドリブだよ」というような事態を捉えて「遊びの堕落」と言ってしまいたいと
   ころだが、それではあまりに矮小化されてしまうことから、ここは一つ「遊び」の哲学者、
   ヨハン・ホイジンガが唱える「ホモ・ルーデンス」(遊ぶものとしての人間)という視点から
   「遊び」を定義してみたい。「遊び」は次のような形式的特徴を持つという。

     ① 自由な行動
 
     ② 日常の生ではない

     ③ 定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる

     ④ リズムとハーモニーで充たされている

     ⑤ 固有の規則がある

     ⑥ 秘儀や仮装のような秘密を持っている

     
    遊びなんだから「自由だよ」というのは実に狭い見方といえる。
    自由であるが同時に規則が存在するということだ。
    ① 「自由な行動」を除けば、茶道などは典型的な「遊び」といえよう。
    茶道は作法でがんじがらめのようで本当は基本さえ押さえていれば、結構、自由なん
   だそうだ。正座しなくても椅子に腰かけたままでもいいそうだ。これら自由な茶道は坂本
   龍一氏らが実戦している。
    
    ヨハン・ホイジンガは20世紀初頭に既に「遊びの堕落」が始まったと説く。
    そうだとしたら、オンリー・イエスターデーの80年代、日本でポストモダンが華やかりし
   頃、「遊び」はどうだったのだろう。 

     いずれにせよ、現代の「あそび」が、日本のものをはじめとして、ホイジンガの
     示した諸特徴から大きく逸脱していることは論を俟たない。軽薄短小の今様
     の「あそび」は、商業主義によって方向づけられているために自由ではなく、
     日常生活のなかにずかずかと踏み込んでくるために非日常の領域になく、
     社会全域に夜昼なく広がっているために時空の限界を失い、機械の発達の
     ためにリズムとハーモニーが生き生きとした活力を持たず、イノヴェーション
     が絶え間ないため規則が動揺させられ、そしてそれらの総合的結果として、
     競技も演劇も祭祀もかつてのような真剣な「あそび」ではなくなっている。
     
         ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~


    この頃、文化系の学生の間では広告業界は就職先として花形の一つであった。
    気まぐれな消費者を捉えて「大衆」ではなく「分衆」、「小衆」と呼称し、人々の多様化、
   差異化した好みを軽薄短小で面白主義の包装紙に包んで商品化することが称揚された。
    (今考えると、キャー、恥ずかしい!の世界だ) 
    そんな広告業界でヨハン・ホイジンガはもてはやされるようになった。
    彼らがホイジンガの「遊びの精神」引き合いに出すのは悪い冗談ではないかと西部氏
   は説く。なぜなら20世紀初頭に芸術は「機械化、広告、センセーション」の影響を受けつ
   つ「直接に市場を目的とする」行為が目立ちはじめ、「遊びの堕落」が始まったとホイジン
   ガが指摘しているからだ。    
    広告業界に限らず、昔の表現だが、「ギョーカイ人」と呼ばれる人々は「遊び」の世界で
   仕事している。彼らは一応にプロを自認するが、同時に「日常の生でない」遊びを日常と
   していて、「定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる」遊びが終わ
   りのない遊びとなってしまっている。つまり、常に「遊びの堕落」と背中合わせに立ってい  
   るともいえよう。
    
    そんな「ギョーカイ人」がたまに集まって音楽を演奏しようとすると信じられないことが起
   こる。演奏曲の譜面を持ってこないどころか、練習してない、いや、聞いてすらないのに
   現場に望むという事態が起こったりする。
    これは「遊びの堕落」の堕落、つまり、「遊びの堕落」の2乗、底が抜けちゃった事態だ。
    この「ギョーカイ人」でも真摯に音楽に取り組んでいる人はもちろん多数存在するが、こ
   のような事態はホイジンガの「遊びの精神」を曲解している、若しくはそもそも知らない「ギ
   ョーカイ人」なら当然の帰結なのかもしれない。

    何とも些細なことを延々と述べているのか!
    いつまで経っても「現在」とつながらないじゃないか!

    まあ~、そう焦らずに。

                                      (つづく)







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「 靖国 」 について 四

   



   天皇と国民の関係も戦前は現在と異なっていた。
   戦前だったら地域共同体(町・村)があってその上に「天皇」が存在した。
   今やこれら共同体は名称だけは残っているが実態は全くと言っていいほど別物だ。
   これらの事情はネトウヨあたりに一番端的に表れているのであって、小林氏は
  「パトリ(愛郷心)なきナショナリズム」と呼称している。
   愛郷心がなくなったというが、地方分権とか叫ばれているくらいだから、一時より
  は愛郷心は復活していると思う。
   共同体から分断された砂つぶのような個人とは私もよく似たフレーズを使うのだ
  が、愛郷心の対象たる共同体というより中間組織(会社、地域等)ではないかと思う。
   これらはアメリカも同様なのであってかの国の場合、教会がこれに加わるかもし
  れない。
   それはたまたまそうなったのではなくて、「社会工学」(Social engineering )に
  よって遂行されたアジェンダだと考える。(今回はこの件については省略します。)

  
   彼ら自称保守が「靖国」を声高に叫び、安倍首相が国際社会の反対を振り切って靖国神
  社に行けば行くほど天皇の靖国参拝は遠のいていく。これを小林氏は「天皇なきナショナ
  リズム」と言っている。
   私としては「靖国」に関して実にシンプルであります。

    「昭和天皇が、天皇陛下が行くことをよしとしない神社には私は行きません。
  
     私は陛下と行動を共にします。」

   これでお終いです。
   これについて自称保守は何ら反論できない。
   同様なことを副島隆彦氏はさらに激烈な表現で述べている。

    もし、君が、本当に、愛国者であり、右翼であり、民族主義者であるならば、
    この昭和天皇の おおみこころ に従え。 天皇のご遺志に逆らうな。 いいか。

             ~ 副島隆彦の学問道場 重たい掲示版 1368 ~


   もっとも副島氏は「外部」的(≒対外的)視点も忘れていない。

   
    いいですか。1978年に、昭和天皇(裕仁=ひろひと=天皇)は、「私は、靖国
    神社に参拝するのは今年からやめる」と決心したのだ。それは、東条英機大将
    (首相)以下の、自分の部下(臣下)だった戦争犯罪者と極東軍事裁判で認定され
    た者たちが、この、1978年から、靖国神社に合祀(ごうし)されたからだ。

    昭和天皇は、「世界の大勢に逆らわない」ということを、自分の敗戦後の出発点に
    した人だ。それでアメリカが押しつけて下げ渡した、現行日本国憲法(別名、平和
    憲法)に従い、主権者(ソブリン)の地位を去り、自ら座敷牢(ざしきろう)に
    入った。

              (中略)
         
    昭和天皇にしてみれば、自分に忠実な臣下であった者たちではあるが、それでも、
    戦争遂行政府を指導したこの者たちは、「世界を知らなかった」のである。それで、
    「アメリカに大きく騙された。お前たちは知恵が足りなかった。知識と情報と学問
    が足りなかったから、騙された」のである。「そして、そのために自分と日本国民
    に大変な迷惑をかけた」のだ。 

    昭和天皇は、東条らに、そのことの責任を言いたかったのだと、私、副島隆彦は、
    日本の政治思想家として判断します。だから天皇は、「私は、もう靖国にはゆか
    ない」と決断した。

    東条ら14柱の戦争最高指導者たちの御霊(みたま)で自分の臣下だった者たちを、
    天皇は祀(まつ)ることを拒否したのである。 悲しく死んでいった他の英霊たち
    を祀ることには異存はない。 だから東条らの合祀(ごうし)は間違いであった。
    昭和天皇は、そのように一人で決断して、ひとりで抗議して、以後、靖国には参拝
    しないストライキを決行したのだ。

    もし、君が、本当に、愛国者であり、右翼であり、民族主義者であるならば、この
    昭和天皇のおおみこころ に従え。 天皇のご遺志に逆らうな。 いいか。

    その御遺志とは、「世界の大勢に逆らうな」 ということだ。世界の大きな流れを
    読めない、深く考えて動けないような者なら愚か者だ。まんまと騙されて、またし
    もても戦争をさせられるように仕組まれる。日本の国家戦略家(ナショナル・スト
    ラテジスト)を自称して恥じない私は、いつもこのことを、自分への自戒として生
    きている。

    東条英機首相たちは、極東軍事裁判(東京裁判)に掛けられて、有罪判決を受けて、
    そして絞首刑になった。このとき、国際社会(世界の大勢)が、この者たちは有罪
    だと決断したのだ。有罪を言い渡された者たちも静かにこれを受け入れている。
    控訴した者はいないはずだ。

    だから、昭和天皇は、日本国の戦争犯罪を認めて、「自分たちは間違っていた。
    周囲を冷静に見る目を失って、世界を相手に無謀な戦争などするものではなかった」
    と反省したのである。
    だから、日本国と自分の責任を自覚して受け容れたのだから、だから、彼ら戦争犯罪者
    (ウォー・クリミナル)たちを、いかに「戦勝国側による勝手な裁判だ」と言っても、
    国際社会に向かって称揚するわけにはいかない。

    だから、国際社会(世界)の何たるかを知っている昭和天皇は、東条英機大将ら、
    自分の部下だった者たちを、戦没者慰霊碑(どこの国にもある、国家の鎮魂の公式の
    場所だ。より正しくは、世界基準では「無名戦士の墓」だ) に入れることを是認しな
    かったのである。
    この判断は、日本国内での好き嫌いの議論の問題ではない。世界が許すかどうかの
    問題だ。
       
                          ~ 引用 同上 ~
      
    
       
   なぜ、昭和天皇が東郷らを祀るようになってから靖国神社に行かなくなったのか?
   これに関しては別の見方も挙げられている。
   昭和天皇が東郷らを許せなかったから靖国神社を参拝しなくなったというものだ。
   A級戦犯だからか、いや違う。歴史通には有名なことらしいが、いわゆる「御前会議」に列
  席していたのは、昭和天皇ではなく影武者で昭和天皇ご自身は軟禁されていたということ
  だ。
   それなら東郷らを許せなくても当然だ。
   さらに世界支配層に昭和天皇が「靖国に行くな」と言われたという見方もあるらしい。
   これは副島氏曰くの「国際社会(世界)の何たるかを知っている昭和天皇」、「世界の大勢
  に逆らうな」と同義だろう。
   いずれにせよ、私の場合はシンプル。
   「天皇陛下と行動を共にします。」
   これでお終い。


   さて、小林氏の言説に戻ると、彼が言いたいことは「靖国だけが愛国ではない」ということ
  と本物の保守、右翼がいなくなったということに尽きるのではないか。

    おそらく、安倍を支持する自称保守派たちは、知らないだろう。
    かつて日本のために戦い命を落としたが、靖国には祀られていない
    「愛国者」が数多くいるということを。

                   ~ 週刊ポスト 2・14 ~


   小林氏は西郷隆盛や頭山 満(とうやまみつる)、さらに彼が率いた玄洋社の人々を引き
  合いにして「大アジア主義」の何たるかを説いている。西郷隆盛も来島恒喜(くるしまつね
 き)も立派な愛国者で国のために死んだが、政府に背いたため靖国に祀られていないではな
  いかと問題提起している。この記事はこんな一文で結ばれている。

    靖国神社だけがナショナリズムの唯一の拠り所ではない。
    我々はいま、靖国参拝絶対主義から解き放たれるべきなのだ。

                  ~ 引用 同上 ~


   小林よしのりで靖国に目覚めた、若しくは彼に影響された若き自称保守よ、この一文は小
  林氏から君たちへの「三下半」(絶縁状)だ!

   真っ当の大人が考えればこういう結論になるだろう。
   自称保守、ネトウヨがそうはならないのは、やはり共同体から切り離された砂つぶのよう
  な個の集まりであるからだろう。
 
   自称保守は「靖国」を唱え、何かといえば「自虐史観」だと言い、自民党版「憲法改正案」
  に賛同し、何が何でも原発維持を叫び、新自由主義(TPP、道州制)しか日本の再生はな
  とトンマなことを言う。
   これらのどれか一つにでも異を唱えようものなら、「お前はサヨクだ」としか言えない。
   阿呆かと言いたい。
   今回の選挙は残念な結果となったが、自称保守の阿呆さ加減が浮き彫りになったと思う。

   最後に若き自称保守に言いたい。
   フジテレビの看板ドラマ枠「月9」が間もなく役目を終えようとしている。
   それに呼応するが如く、自称保守ももう終わる運命だと私は考える。
   その時、“ 懐剣 ”だった「靖国」は彼らの喉元に突きつけられた “ 匕首 ”(あいくち)とな
  るだろう。

   誰でも若気の至りはあるものだ。

   真っ当な保守になったらいい。

                   (了)



大東亜論
玄洋社の海外工作部隊として活動した「黒龍会」
は海外名、BDS(Black Dragon Society)として
恐れられた。戦後、解体させられたが、近年
「黒龍会」として復活した。




  〔関連記事〕

   歪められた歴史 VOL.5(その1)

   歪められた歴史 VOL.5(その2)

   歪められた歴史 VOL.6

   出血サービス!ベンさん VOL.2










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「 靖国 」 について 参

   


   さて、中断しましたが、これも綴っておかないといけません。
   なぜなら、「 靖国 」を唱える若き自称保守の中には規制改革、国家戦略特区を推進する
  連中が少なくないからです。
 
   前回、日本は国際宣伝工作、すなわち輿論(よろん)戦において劣勢であると述べた。
   いわゆる外交ではなくても広義の「外交」における日本の劣化が今日の靖国問題をこじら
  せていることを自称保守は認識していない。
   一人でロシア革命(ロマノフ王朝崩壊)を工作した明石元二郎陸軍大将は草葉の陰で泣
  いているだろうよ。
 
   今日の自称保守とは何ものなのか?
   小林よしのり氏は新自由主義推進の隠れ蓑として「靖国絶対主義」を唱える自称保守を
  批判している。彼の言説に耳を傾けよう。

    いつの間に、靖国はこんな偏狭なナショナリズムに利用されるように
    なってしまったのだろう。

       (中略)

    規制改革にしてもTPPにしても、そして原発推進(小泉は転向した
    が)にしても、安倍の現在の政策は、本来、日本の共同体が培ってい
    た愛郷心(パトリオティズム)を破壊するものばかりだ。
    安倍はそうした新自由主義的政策を推進しながら、なお「保守・愛国
    者」と見られるために、靖国神社を利用した。
    靖国参拝はもはや新自由主義の隠れ蓑になってしまったのだ。

                 ~ 週刊ポスト 2.14号 ~ 

  
   これは私が常日頃、自称保守に抱いている違和感と見事に一致する。
   言わせてもらえば自称保守は根本的に矛盾しているのだ。
   なぜ、このような事態になってしまったのか様々な要因が考えられるが、大きな要因と
  して「冷戦構造」のインチキに無理解のまま社会主義の敗北、資本主義の一人勝ちを一点
  の曇りもなく盲目的に信じていることが挙げられよう。
   だからこそ単純・直角に資本主義礼賛となり、ガンガン資本主義を推し進めればよい、
  いやそうしないと「競争」に負けてしまう、負け組になってしまうと素朴に信じている。

  
   サイバー・グローバル資本主義において彼らが資本主義を面舵いっぱいで推し進めれば
  進めるほど社会主義に近づいてくる。それが言い過ぎならコーポラティズムに傾く。
   そうなることがけしからんと単純直角な自称保守はさらに資本主義を推進する、すると
  さらに社会主義に近づく、それじゃアカンとさらに自称保守が・・・という具合にイタチ
  ごっこを繰り返すことになると言ったら少しはわかりやすいだろうか?
   (まるで映画「マトリックス」でネオが強くなればなるほどエージェントスミスも強くなることに
    似ている)
   
   やがてはハイパー資本主義とコーポラティズムが矛盾するようで一体化した社会が出現
  するだろう。そのためにはどうしたってカリスマ性に富む人物によって国民がファシズム
  に糾合されていくと考えられる。でも、その人物とは安倍氏でも橋下氏でもなく、もっと
  先のこと、2030年代くらいではないかと思う。
   「何を言っているんだ、だから我々は正しいのだ。時代の趨勢に先んじているのだ」と言う
  かもしれない。でも、彼らのイメージするのは20世紀、戦前のファシズムであり、21世紀は
  「国民国家」そのものを溶解させるグローバル企業による「超帝国」の時代が待ち構えてい
  ることを自称保守は想像だにしないだろう。 

   「保守」はいつの時代も一枚岩とは言い難く、いつ空中分解してもおかしくない。
   そんな「保守」の共通の基盤は「国民国家」の堅持であると私は考える。
   「国民国家」を溶解させる経済政策を推進して何が保守だ!何が國體だ!笑わせるな!

   「そうなったら日本に最後に残るのは天皇制なのだよ。だからこそ国家神道だよ、靖国だ
  よ」と言うほど思考力のある自称保守がどれほどいるだろうか?
   それにあなた方のいう「靖国」に「天皇」はいるのだろうか?   
   
   この点においても「靖国」を連呼する自称保守は矛盾しているのです。

                                  (つづく)   






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