素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「忖度」、「空気」、「不信」、「攻撃」、「荒馬」

     



     森友学園問題は、大阪地検が告発状を受理したことから新たな展開を向かえつつあ
    るのだろうか? それとも形だけ捜査して甘利某の時、同様に不起訴にするのか?
     何せ相手は近畿財務局(財務省)なのだからどうしても及び腰になると思う。
     それに共謀罪の審議が始まり、相変わらず北朝鮮がミサイルぶっ放し挑発してくる
    ことからいつまで森友学園問題じゃないだろうし、これから書かれる概念的な事柄はど
    うでもいいということにもなろうと思うが、そうでもなく、これらはこの記事のタイトルと関
    連してくるのです。  

     「忖度」という言葉は、今年の流行語大賞にノミネートされるだろうと言われる。
     「ハイ、それじゃ忖度してちょうだい!」なんて先日もギャグかました。
     この「忖度」という言葉の根本は「空気」だろう。
     その昔、「空気読む」とか流行語になったが、そもそも日本人は山本七平氏曰くのとお
    り「空気」を読んで行動しがちな国民だ。これは一種の同調圧力ともいえる。
     現在の、(正確には少し前までか)「空気」は「安倍一強」であります。
     政界、官界、財界、マスゴミとみんなでこの「空気」を読み合っている。
  
     安倍政権は秘密保護法、安保法制とそれなりに、及び強固に反対されていた法案を可
    決させてきた。この「安倍一強」により過去何度も廃案にされてきた「共謀罪」もいけるの  
    ではないか、え~い、いてまえ!と政府は前のめりだ。
     政界、官界、財界、マスゴミだけでなく国民の中にも前者2法案は「どこか悪いのか?」
    という人が少なからず存在する。それらについて本稿ではふれないが、「共謀罪」は明確
    にいけないのです。この際、難しいことは抜きにしよう、簡単なことだ。

     信じられないからである。

     森友学園問題の安倍首相答弁に端的だが、「アンダーコントロール」にしても「アベノミ
    クスは成果をあげている、この道しかない、アベノミクスをさらに吹かす」にしても平気で
    ウソつく政権がゴリ押しする「共謀罪」は信じられないのだ。
     いくら、安倍首相が一般国民には「共謀罪」が対象にならないように配慮すると言って
    も「ホントか危ない」という「不信」がまともな国民には根強くわだかまっているだろう。
     今や「空気」だけではなく「制度」の問題でもある。
     小選挙区制で党執行部に公認権をはじめ絶大な権力が集まることから逆らえないし、
    官僚も官邸に人事権握られたの同然なのだから。
     永田町、霞が関では「空気」はもはや「制度」として固定化される。
     選挙制度が変わらない限り、自民党総裁の「空気」を政界、官界、財界、マスゴミで「忖
    度」し合う状況は変わらないのではないか?
     この「空気」は「共謀罪」で強化され、やがて「お上」にはダンマリを決め込むようになる
    だろう。「お上」に楯つくと「共謀罪」でパクられると思い込むようななる。
     右派・左派関係なく冷静に事態を把握すればこれが当然の帰結と考える。

     右派・左派と言ったので、この際記しておくが、今日の自称「保守」はやたら敵を見つけ
    これを「攻撃」することが常態となっている。例えば、左翼、リベラル、日教組、労働組
    合、反日、朝日新聞、韓国、中国等々。
     この機会に彼らに進言したい。
     「保守」という名称は返上して「攻撃」としたらどうかと。
     勇ましい、強い言葉を発して「攻撃」することが何かを「保守」しているのだと自らの立ち
    位置を鮮明すると思い込んでいるようだ。
     言葉の「強度」を上げることこそ「保守」の姿勢が明確になると勘違いしている。  
     どんどん偏っていけばより言葉の「強度」が上がると信じて疑わないようだ。
     それはたいへん幼稚な思考だ。
     森友学園問題における安倍首相の答弁に関して野党議員が「無理して強弁するから
    おかしなことになるのです」と言う主旨の発言をしていた。
     まさしくその通りで一方に偏って凝り固まっていることは強いようで弱い、脆いとさえ言
    える。本当に強いのは変幻自在でのれんに腕押しのように掴みどころがないことではな
    いか。

     安倍首相の支持基盤、「日本会議」他の団体もこの言葉の「強度」信仰に奉じていると
    思う。「日本会議」他、自称「保守」が「天皇」と言う時、私には言葉の「強度」としての
    「天皇」としか聞こえない。言葉の「強度」としてのエセ文学趣味が「瑞穂の國記念小學
    院」という旧字まじりの呼称であり、「教育勅語」であるとしか思えない。
     つまり、彼らが力説するほどの価値も意味もなく、そこにあるのはエセ文学趣味でしか
    ないということだ。 
   
     さらに「日本会議」は「日本」と団体名に冠するのだから自らを「正統」といいたいよう
    だ。私には「正統」どころか「異端」に片足突っ込んでとしか思えない。
     なぜならギルバート・キース・チェスタートン曰く、

      「正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかに
      ドラマチックなものである。正統は、いわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡
      だったのだ。」

     だからだ。
     「日本会議」は自らが「荒馬」となり「正統」を蹴散らすことに励んでいるのだ。
     彼らが「荒馬」となり、砂煙をあげながら街道を走り続けることが、国民に彼らこそ
    「正統」とは程遠い存在と気づかせることになるのだ。

     森友学園事件とはその出発点なのである。




空気読まない
                     こう言い切れる日本人は少ない。







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