素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

知識人、文化人、芸能人らの共謀罪法狂騒曲 後編

    



    どうも三浦璃麗女史は、若い衆には人気あるようだが、私はこの人、「ゲスの極み乙女」
   と同じに思える。
    全然、違うじゃん?
    まあ~、聞いて下さい。「ゲス」も「極み」も「強度」ありますね。
    「乙女」だって、やはり「 」がつくくらい「強度」があるのです。
    「ゲスの極み乙女」といえば、それぞれの「強度」が内部で核分裂するがごとく磁石のS
   とN極のような斥力を発揮しつつ同時にそれぞれのベクトルの強度を「相対化」しているの
   です。
    つまり、「強度」と「強度」をぶつけてそれぞれを相対化しつつ全体としては不思議と統合
   させるというさらなる「相対化」を図ると同時に「強度」の磁場をつくり上げている。
    「ゲズの極み乙女」も若い衆に人気あるようですが、私にはそのスタンスは「ポストモダ
   ン」の終着点のように思えます。
    つまり何も新しくないということです。
    ネーミングだけで音楽とは何の関係もないじゃないか、と思われるかもしれませんが、音
   楽だって遅れてきた渋谷系、田舎くさい小沢健二?じゃないかと思ってます。

    三浦女史は「リベラル殺し」の刺客として存在しつつ「保守」たらんともしないのです。
    日本のリベラルは教条主義は少なくどちらかというと「相対」であり、これらを「バッサ、バ
   ッサ」と斬り捨てる様は、一見、「保守」のような「強度」を持つように若い衆は錯覚している
   のでしょう。かと言って彼女は自ら何かを打ちだしたことなどないのです。
    今回の共謀罪法でも三浦女史は、民主党など多くのリベラル勢力が反対を表明するな
   か、「(あなた達わかってないわね)共謀罪はテロ対策なのです」と軽くリベラル斬りしつ
   つも「共謀罪は不備がある」と今度は政府(保守?インチキ保守)にチャチャを入れつつ、
   そんな不備がある共謀罪法は拙速にやるべきではない、とか共謀罪反対とは表明しな
   い。つまりリベラルという「相対」を相対化しつつ、「保守」たらんともせず、同時に「逃げ恥」
   するスタイルだ。換言すれば肝心なところは「東大話法」若しくは「政治学者話法」のあわ
   わで煙に巻くか、スルーするから火の粉が己の身にふってこない様がクール ⇒ 強度と
   思っているなら大間違いですね。
    彼女も「ゲスの極み乙女」と同様、「ポストモダン」の終着点としての立ち位置でしかあ
   りません。 

    
    例によって脱線しました。
    本論に戻ると、共謀罪法擁護論者の主張の支柱、「テロ防止のため」は繰り返しになる
   が、憲法学者、木村草太氏のこの言説でバッサリと斬り捨てられた。

     やはり今回、テロ対策だからこの法律に賛成したというふうな有識者の方は、
     ぜひ、 本当に自分が発言する資格があったのかどうか、きちんと考えてほし
     いと思いますね。


                     ~ 小林よしのり 「あのな、教えたろか」 ~    

    本来なら「バッサリ」と斬り捨てられた人物として三浦璃麗、津田大介とともに松本人志
   があげられる。彼も「冤罪とかあってもテロ防止のためなら・・・」と共謀罪擁護論を展開し
   ていた。松本人志は、この言説を前にしてもお笑いという彼の武器で際限なく「相対化」
   していくだろう。彼も間違いなくポストモダンを漂流している一人だ。誰しもそうだと言える
   が、実は人一倍明確にそれを体現している、本人は意識していないだろうが。
    当ブログでも取り上げた映画 「しんぼる」の終盤のどん詰まり感はまさにそうだ。
    平時の政治はともかく、共謀罪などはお笑いにしてはいかんのだよね。
    それを承知で各テレビ局は、お笑い芸人に政治についてもコメンテーターにしているの
   だと思う。
    さらに大きな現在のTVメディアモードについて解説するなら、「報道ステーション」のレギ
   ュラーだった木村草太氏のような政権に都合の悪い、若しくは辛いこと言う人物を同番組
   レギュラーから排し、田崎スシローよりは一足早くうまいこと風見鶏した後藤某をレギュラ
   ーコメンテーターにするのが、官邸に意向にそった放送局の報道なのだ。
    共謀罪法採決が決まってから木村草太氏のような人物を出演させるのが、「報道ステー
   ション」ギリギリの抵抗のスタンスか、さもなければこの放送局のアリバイとしての木村草
   太氏出演ということでお茶を濁すべしが首相との食事会での社長、報道局長への指示事
   項であったか、そのいずれかでしょう。
    この怪しいスタンスを田原総一朗氏が自家薬籠のものとして体現していることは事情通
   なら周知のことだ。彼の奥さんの葬儀は電通が仕切っている。何が言いたいかというと、
   一見、過激そうな彼の言説も絶妙な電通コードの枠の中に収まることでしかない。木村草
   太氏同様、共謀罪法採決が決まってから田原氏が出演して一見、「過激」トークという期
   待どおりの役割を演じているのだ。
    官邸お誂えの向きのTV局報道モードがない以前の状態だったら、シリーズ「共謀罪法」
   なる番組構成も可能だったろう。各局でこれが出来れば、あのような奇策を弄しての強硬
   採決は出来ず、政府は加計問題で会期延長は何としても避けたかったのだからまたもや
   時間切れで共謀罪法廃案という目もないわけではなかった。 
    いずれにせよ、田原氏の「過激」もどきはネット時代の今日、時代遅れであり、所詮、電
   通コードがあるなら木村氏のように淡々と論点整理するだけで十分だ。
    「過激」ではなく「過激」もどきと知れた途端、「過激」もどきは芸能(お笑い)との親和性
   を示しだす。そんなことは二人とも意識していないだろうが、田原氏(「過激」もどき)と松本
   人志(お笑い)は対談している。
    このような田原氏のスタンスを知らず、田原氏と対談した際、変におののいたり、お茶濁
   している松本人志はやはり政治的話題を語る資格がないと思う。

     
    表現に携わる人にとって共謀罪は他人事ではない。
    最後に会田 誠氏のこの言葉を記しておこう。

     現代美術家の会田誠氏は、アーティストとしてのあり方に踏み込んで共謀罪への
     反対を表明。安倍政権は、「権力に歯向かう者」、「皆と歩調を合わせない者」、
     「国家のために自分の全てを捧げない者」を社会から排除しようと画策しているが、
     アーティストとはそもそも、一度常識の外に出て物事を見つめ表現をつくり出す人
     たちだ。そういったことを許さない全体主義的な安倍政権の思想は、アーティスト
     として到底受け入れられる代物ではない。

     〈僕は一般的な国民になる気はさらさらないので、もとより共謀罪には反対です。〉
 

                                   ~ LITERA ~



     ミケランジェロの時代から表現者は直接的でなくて間接的であっても多かれ少なかれ
    「権力」と闘ってきたはずだ。
     この共謀罪法を前にして何ら発言しない表現者は表現者たり得るのだろうか?

                                           (了)











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