素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

コンプライアンスの時代に「 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間 」を観る 後編



   
   リアルを追求した造形か、まがまがしくウソッほい造形か、これらに一石を投じたのは
  ティム・バートンの「マーズアタック」、「エドウッド」あたりと世間一般的には認識されている
  だろう。テクノロジーの飛躍的進歩によってもたらされるSF、怪奇ものジャンル特有の命題
  というより実は「映画」そのものに対する根源的問いかけと捉えるべきものだ。
   すなわち、新しいようで古くからの論点でありまして、ジャック・ニコルソンはロジャー・コー
  マンのドキュメンタリーで明言している。

    「スピルバーグらがSFをダメにした」と。

   何のこっちゃ?と思われるかもしれませんが、映画は何でもリアルに正確に表現すれば
  いいというわけでもないのです。大林宣彦の「狙われた学園」のブルーマット、クロマキー
  がチープだと笑うのは簡単ですが、彼はそれを意図してやっている。
   この論点、CGで何でも再現可能な現代こそ問い直されるべきであるが、突き詰めると
  「映画の始原」まで遡ることなのです。
   リュミエール系譜の映画か、ジェルジュ・メルエス系譜の映画かということになろう。
   仮にリュミエール系譜で本作をリローテッドすると、奇形人間はすべて本物というこ
  とになる。“ 肉体の貴族 ”たるフリークス映画に様変わりするというわけです。
   そうするとどうしたって、丈五郎(土方巽)の水かきのはりぼてでつくりものさ加減、
  いや彼及び土方舞踏団の面々と相いれずこの映画は空中分解するだろう。
   それに何よりもあのグロテスクにしてシュールなファンタジーたるラストシーンは全く
  中に浮いてしまい存在し得ない。
   フリークス映画の見世物的要素を入れつつも土方とのコラボを考えると、本作はメリエス
  的様式に比重を置くのが正解だと結論づけられる。
   つまり、ハチャメチャのようでも当然の帰結として本作の様式は規定されている。


   差別用語に戻ると、90年代初頭あたりの“ 言葉狩り ”は現在、解消された。
   「この映画には配慮すべき表現がありますが、時代背景、オリジナリティーを重視して
  放送しました。」というテロップを入れるとかして映画専門チャンネルでも放送されている。
   “ 言葉狩り ”とコンプライアンスは直接には何ら関係しないが根底に通じるものは同じ
  だと思う。
   「差別の否定」、「法令の順守」共に邪心、悪徳、本音の隠蔽等々

   両者ともに一見まことに結構なことだが、これらは「非対称性の権化」だとも言える。
   人間社会、現実がどうあろうと「お上」が決めたもの以外は認めないというのだから。
   人間社会の現実は、矛盾に満ちていてまがまがしくインチキや掟破りがまかり通り、
  忌避して目を背けたいものに満ち、悪徳への誘惑が後を絶たない。
   もちろんこれらを推奨するつもりはないが、逆にこれらの全くない世界などいくら
  世の中がマイルドかつデオドラントになってもあり得ない。所詮は程度の問題。
   もともと非対称性の産物、資本主義がどんづまりを向かえつつある現在、非対称性の
  権化=コンプライアンスが推進され、やがて情報、思想が非対称化、すなわち統制され
  るだろう。
   ビデ綸 ⇒ コンプライアンス ⇒ 非対称性と概念的になり過ぎたので、「恐怖奇形人間」
  に戻します。規制、統制しようと法律で規定しようと、人間は残酷でグロテスクで目を背け
  たくなるようなものを観たいのだ。三島由紀夫曰くのように人間そんなに簡単に変われるよ
  うなものじゃない。
   彼曰く、「ほんの100年ほど前までは、新撰組の斬首を見るため黒山のひとだかり
        となったのだ。人々は残酷と血みどろがみたいのだ。」

   もちろん本作はスプラッタームービーではないが、日常性から大きく逸脱したドス黒い
  世界、悪夢の世界をまがまがしくカリカチュアーし、最後には自ら反=楽園を蹴飛ばして
  破壊してしまう。ことここに至って、我々もはや笑うしかないのだ。
   コンプラインスなど吹っ飛ばしてしまう見世物小屋的悪夢すら笑い飛ばす本作は、コンプ
  ライアンスでがんじがらめの今日こそ見直す意義があると思う。
   本作に熱狂する人々にとってコンプラインスなどバカバカしいの一言に尽きるだろう。
   「3丁目の夕日」シリーズに耽溺し、本作を唾棄する人々にとってコンプライアンスは
  粛々と受け入れるべきものだと思う。

   「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」は単なるカルトとして観られるべきものではなく、
  非対称性に埋め尽くされている現在における解毒剤であるのと同時に映画の、人間の
  根源へと誘う映画だと考えるべきだろう。

                    (了)
                     


恐怖奇形人間
「完」とクレジットされる直前、I は「コレ、拍手
ものでしょう」と言い私も「じゃ拍手しようよ」と
返し二人して拍手したら、場内に拍手が湧き
あがった。  






  

スポンサーサイト

映画 | コメント:0 |
<<自分のことは自分で守ろう(間もなく預金封鎖!?) | ホーム | コンプライアンスの時代に「 江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間 」を観る 前編>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |