素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「 試論 『 相米ごっこ 』 」 についてのスケッチ 中編

   



   え~と、何の話だっけ?相米か(苦笑)。
   かつて相米の「光る女」(87年)をゴジ(長谷川和彦)は、「相米ごっこ」と揶揄し不満を露
  わにした。この映画の制作会社・ディレクターズ・カンパニーの(注)の中心人物であるゴジ
  としては興業的にズッコけた「光る女」を厳しく断じたわけだが、この映画の興行的失敗に
  よってゴジ自身の念願の大作「連合赤軍」がクランクイン直前でつぶれてしまったのだから
  「コンチクショーめ」という思いも強かったろう。
   
   (注)・・・1982年に、当時新進の映画監督9人が設立した。フランシス・F・コッポラ
         とジョージ・ルーカスの「アメリカン・ゾエトロープ」に感化されたか、監督
         主導の映画制作を目指した。設立メンバーは、長谷川和彦、高橋伴明、
         石井聰亙、井筒和幸、池田敏春、大森一樹、 黒沢清、根岸吉太郎、
         相米慎二

   もっとも、私見だが、「連合赤軍」はゴジではなくて若松孝二で良かったと思う。
   お金がないからと「あさま山荘」に自分の別荘を使い、ぶっ壊してしまう程の覚悟を
  長谷川和彦を持ち合わせてなかったと思う。
 
   本論に戻ると、別に「光る女」だけではなく、相米の作品はそのほとんどが「相米ごっこ」
  だったんじゃないかと思う。彼の代名詞のような長回しすら「相米ごっこ」のためのお膳立て
  だったような気がする。「相米ごっこ」が顕著なのが、「セーラー服と機関銃」、「ションベン
  ライダー」、「光る女」あたりではないか。

   「セーラー服と機関銃」で東映の時代劇をスクリーンプロジェクトのように背景にして、
  薬師丸ひろ子が機関銃ぶっ放し「カイカン」と言うあの有名過ぎるシーンは、もちろん「相米
  ごっこ」だし、同作で三大寺(三国連太郎)のアジトに潜入する際の薬師丸の衣装、アジト
  の美術、三大寺のキャラ、すべてが「相米ごっこ」だということは誰でもわかるし、「ション
  ベンライダー」にも有名なオープニングはもちろん、材木場でも長い長い移動撮影(おそらく
  日本映画史上に残るだろう)の他にも、レナード・シュレイダーの原案なら、つまりアメリカ
  人なら中学生の3人とヤクザの絡みも腑に落ちたろうに「こんなガキのごっこにはもうつき
  あいきれん」と言ったかどうかは知らんが、藤 竜也が二度と相米とは仕事しないと思わせ
  るに十分なほど「相米ごっこ」はあふれ出ているのだが、「相米ごっこ」で済ませておけば
  よかったのに「光る女」では「ごっこ」をやめてリアルに映画芸術しようとして空振りに終わ
  り、「映画芸術ごっこ」⇒ 「相米ごっこ」になってしまうという倒錯劇を演じる羽目になって
  しまい、本編よりこのメイキングの方が面白いに違いないと「空想映画館」で一人上映する
  夢想に耽っている自分を発見したりするわけです。
   (相米にならって私も「文章の長回し」をしてみました。) 
      

   「相米ごっこ」の核はやはり長回しなのだが、別に相米の専売特許というわけじゃなくて
  長回しする映画監督は世界中に枚挙のいとまがない。
   
    溝口健二、ベルナルド・ベルトルッチ、テオ・アンゲロプロス、大島 渚
    アンドレイ・タルコフスキー、アレクサンドル・ソクーロフ、オーソン・ウェルズ
    加藤 泰 等々 

   では、なぜ相米の長回しが「相米ごっこ」になってしまうのだろうか?
    よく言われることは、カットの切れ目をなくして日常的自然を現出させようとすると、
  映画的に不自然が露呈されるということだ。
   他の長回しする映画監督だってこれは常について回るのだが相米ほど不自然ではない。 
   強いて言うと、オーソン・ウェルズの「黒い罠」の有名なオープニングがやや「ウェルズごっ
  こ」だし、「旅芸人の記録」で長回しと共にカメラ目線で観客に語りかける様が「アンゲロプ
  ロスごっこ」と言えるし、加藤 泰の「緋牡丹博徒」シリーズでカメラ据えっぱなしの長回し
  の画面に突如、若山富三郎演じる“ シルクハットの大親分 ”が闖入(ちんにゅう)する
  シーンが「加藤 泰ごっこ」かもしれない。

   でも、相米の場合、これらの誰よりも際立って不自然なのであります。
   彼は無名の新人、若しくは演技経験の浅い女優を使って清新なイメージを引き出し、演技
  開眼させる達人であります。ここにも彼の特質は現れています。
   同じく少年、少女、子供を使ってもフランソワ・トリュフォーばりに彼らの自然な表情を画面
  に定着させる是枝裕和とは対極といえるでしょう。
   相米の場合、少年、少女に自然な表情なんか求めていません。
   原木から削り出し「相米ごっこ」にふさわしいお人形を作っているといったら言い過ぎか。
   そんなお人形がを動かし長回しするのですからどうしたって不自然なんです。

   私は「相米ごっこ」の不自然さを一方的に批判したいわけではありません。
   「相米ごっこ」がピタリとはまる場合だってあります。
   「台風グラブ」で台風が迫る雨がふりしきるグランドで少年、少女たちが下着姿で狂態を演
  じる様は「相米ごっこ」とリアルで生な思春期が見事にマリアージュ(結婚)します。
   (CMでロバート・デニーロが松田龍平に「『 台風クラブ 』は観たか?自分の国のクラ
    シックくらい観ておけ」とか言ってますね。)

              台風クラブ
               作家集団のようなディレクターズ・カンパニーだが、作家
               主義を貫いているわけでもない。本作の脚本はディレカン
               公募のシナリオです。


   「ごっこ」は英訳すると私(わたし)的には「PLAY」でしょうか?
   演劇はすべてPLAYですね。そうするとすべての映画は「○ ○ PLAY(ごっこ)」しているわ
  けです。でも、相米の場合、特に演劇的にリアルなPLAYを求めているわけではありま
  せん。
   むしろ長回しに連動した過剰な動き、場面設定でいわゆる「リアルな芝居」を破壊したりし
  ます。過剰なPLAY=「相米ごっこ」は、それだけでなく自然というには荒々しいむき出し
  の風景を切り取ったり、「相米ごっこ」の過剰な波が凪(な)いだ刹那、その反射としてリアル
  な相貌を現出させたりします。
   当時はみんなを唖然とさせた「セーラー服と機関銃」でのワンシーン、ビルの屋上で薬師
  丸ひろ子と渡瀬恒彦が「目高組解散の儀式」を真俯瞰の大ロングショットで捉えたシーン
  などは、演技している二人を捉えているというよりビルの屋上にいる二人の人間を即物的に
  撮影しているだけと思わせるような残酷なまでに荒々しい風景といえよう。
   この残酷なまでの風景の切り取り方は北野 武にも共通しますね。
   「ソナチネ」、「キッズリターン」、「HANAーBI」くらいまではそうでしょう。

   「相米ごっこ」がまだ押さえ気味だった、デビュー作「翔んだカップル」でモグラ叩きゲーム
  しますが、だんだんモグラ叩く手が止まり、妙な間(ま)が現れるあのシーンは「相米ごっこ」 
  の波が凪いで、フト青春のリアルな相貌がそれこそモグラ叩きゲームのモグラのように顔を
  覗かせて秀逸です。
   
              (つづく)
  

     翔んだカップル
     本作では薬師丸ひろ子(山葉圭)と石原真理子(杉村秋美)が一人の男を
     巡ってゆる~い三角関係となるのだが、後に、それが現実になるとは。
     いくら「ごっこ」でも映画(フィクション)は恐ろしい。
       
      






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