素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「 試論 『 相米ごっこ 』 」についてのスケッチ 後編

   



   「相米ごっこ」の見事なまでの失敗作は、やはり「光る女」(1987年)でしょう。
   (でも、実は47分も未公開シーンを加えた完全版のDVDが出ている。47分もカットしてし
    まったら何がなんだかわからなくなっちまう。今度みてみましょう。本稿はあくまで劇場
    公開版で評価します。)

   理由は簡単です。大人に「相米ごっこ」させたことと、大人に「相米ごっこ」させるにはお金
   が足りなかったからです。
    大人に「ごっこ」(PLAY)させるんだったら、ダンスとかオペラとかミュージカルになるで
   しょう。それらをそのままやっても映画にならないし今日、企画として通らないことを相米は
   百も承知です。
    「大人のごっこ」ではなくて、なんとか大人に「相米ごっこ」させようと相米は悪戦苦闘し
   ますが、彼は根が生真面目だったのかもしれません。鈴木清順やフェリーニのように
   あっけらかんとはいかず不発に終わってしまったと思います。
    でも、相米は大人に「相米ごっこ」させることは断念しても「大人のごっこ」は諦めません
   でしたし成功させます。「大人のごっこ」はオペラ、ダンス、ミュージカルだけでなく、一種
   の神話的、祝祭的世界、幻想空間でしょう。
    彼はそれらを「お引越し」(1993年)の琵琶湖で祝祭的な船が炎上するシーンで結実せ
   せます。
    詳しくは後で述べますが、本作は彼のフィルモグラフィーのうち本作でだけ成し遂げたあ
   る映画的勝利によって私は相米の最高傑作だと思います。


            お引越し
             NHK朝ドラ「私の青空」は本作の別バージョンに
             思えてしまう。本作の桜田淳子の母親役を
             「私の青空」では田畑智子がやっているような・・。
             北山 なずな(私の青空)、漆場ナズナ(お引越し)
             どちらも母親役はなずな。
              


    ここで長回しについて少し述べておきましょう。
    相米はヌーベルバーグの父(と私は思っています)、映画評論家アンドレ・パザンが称揚
   した長回しを自家薬籠中のものとしたと言われます。
    いわゆる「モンタージュ否定」としての長回しということです。
    ずばり長回しについてではないですが移動撮影について書かれたこの一文も参考にな
   るでしょう。

     映画は普通に撮ると1秒間が24コマに分割される。人間の眼は、そのうち4
     コマまでは見たことを意識できる。それ以下では人間の知覚能力を超えてしま
     い潜在的にしか意識できない。
     それでは、4コマ以下のショットだけをモンタージュして作品にしたらどうなる
     のか。
     光や色は網膜への生理的刺激と化し、イメージが目にとまっても部分的、間歇
     的なものでしかなくなる。
     だが、虚(巨)大な例外が一つ残っている。それは一瞬たりともとぎらせること
     なくカメラを移動させることだ、どんな滑らかな移動も、移動であるかぎり、24コマ
     のモンタージュにせざるを得ないという映画の本質的パラドックス―― フィルム
     をバラさないモンタージュ、フィルムセメントを一滴たりとも使わないモンタージュ・・・
     モンタージュの極北とモンタージュ拒否の極北がとけあう場、そこに映画は立つ。
  
              ~ 美術手帳 1981年12月号 「映画楽入門」 ~


   別にカメラ移動させずフィックスでも人物を動かしてフレームイン、フレームアウトを繰り返
  せばこの一文と同様となるわけですからこれは長回しについても援用できる言説です。 
   80年代初頭、私はこの言説にふれ「ナルホド」と納得しましたが、これはあくまで「画像」
  についてだけであり肝心なことがすっぽりと抜け落ちているのです。それは「時間」について
  です。これについては後述するとして、そんな小難しいこと言わなくてもヌーベルバーグの
  頃、いや80年代初頭、相米がデビューした頃はこれでよかったでしょうが、今や事情が少し
  違うのです。  
   映画のカメラのマガジンに収められるフィルムの尺は私の記憶が確かなら35ミリの場合
  13分とかそれくらいでした。作り手(監督、カメラマン)はこの制約の中で覚悟を持って
  ワンシーンワンカット(長回し)してきました。ビデオやHDCAMとは違いフィルムは消去
  できないのですから、NG出したらそれだけフィルム代がかかり製作費がかさみます。
   ところが今や、誰でもビデオやHDCAMで1時間、2時間と連続撮影できますし、NG
  だったら消去してやり直せます。要するに玄人、素人を問わず誰だって長回しできるの
  です。もっとも、リュミエール兄弟の時代に戻るというと聞こえがいいですが、ただ冗漫
  に撮り流しているという事態にもなりかねません。何だよ、編集技術知らないのかよ、
  と突っ込み入れたくもなります。

   そんな折、NHKのハイビジョンを使って映画監督、究極の夢の一つ、映画1本まるまる
  ワンカットという作品を撮ってしまった人物がいます。
   アレクサンドル・ソクーロフは「エルミタージュ幻想」で全編90分、最初から最後まで
  ノーカット・ワンカットで撮りあげてしまいます。
   ここでソクーロフはある思考を巡らさなければならなかったと思います。
   全編ワンカットの超超長回しなのですからリアルタイムの時間であり映画編集につきもの
  の「省略」、「飛躍」、「圧縮」が一切できません。いくら散文的な人でも、これじゃ作品
  にならないだろうという結論に辿りつくと思います。
   そこで彼はエルミタージュ美術館という場所を限定し、館内だけ(部分的には逸脱するが)
  でロマノフ王朝300年の歴史を再現しエピソードをつないでいくことを試みます。
   現実には事態は逆でエリミタージュ美術館でロマノフ王朝の歴史を再現するには全編ワン
  カットがベストだという結論に至ったのかもしれません。 

   長回しの時間はリアルタイムの時間で、これを私は「水平な時間」と名づけます。
   一方、「歴史」というものは美化されたり歪曲されたりしたとしても繰り返し反復される
  一種の永遠性を獲得した時間であり、私はこれを「垂直な時間」と名づけます。
   「エルミタージュ幻想」は全編ワンカットという「水平な時間」の横溢の中にロマノフ
  王朝の歴史という「垂直な時間」がモンタージュされて出来あがっている作品です。
   前述のアンドレ・パザンらが説く「モンタージュの極北とモンタージュ拒否の極北」と
  してのワンシーンワンカット(長回し)はあくまで「画像」に限ったことで「時間」については
  ノーマークでした。
   黒澤 明曰くのように時間芸術である映画は音楽に似ているのであって画像だけで長回し
  を語ったとしても技術的に全編ノーカットが可能な現在、片手落ちであり時代遅れです。

 
           エルミタージ幻想
            ロマノフ王朝やエルミタージュ美術館や長回しに興味
            なくても一度は見る価値があるでしょう。
            でも、劇場ではチトつらい。本作こそDVDでチビチビ
            とやるもよし。

   
   さて、相米の「お引越し」は長回し(「水平な時間」)がやや控えめですが、10数年、
  長回しを続けてきた相米ならではのこの時間のモンタージュが見てとれます。
   田畑智子が正面を見据えて歩いてくる、あのラスト、彼女のたった一言のセリフで
  「垂直な時間」を現出させます。(この場合、「歴史」というより「圧縮された時間」と
  いう意味です。)
   無限といっていい可能性と時間を新緑の新芽のように小さな胸の奥に折りたたんだ少女
  の一言が観るものを圧倒します。
   このシーンにやられちゃったのは私だけでなくその一人が庵野秀明です。
   相米をリスペクトするのは庵野秀明、行定 勲他、本稿冒頭の若き映画監督など多数
  いることは東京フィルメックスでの三浦友和の証言でも伺いしれます。
   その中で「お引越し」にやられちゃったのが庵野秀明です。
   本作は彼の「新世紀エヴァンゲリオン」に影響与えているそうですが、それだけでは
  ありません。庵野の実写版映画「ラブ&ポップ」のラストシーン、仲間由紀恵を含む4
  人の女子高生がルーズソックスが濡れようと汚れようが渋谷川をまっすぐ延々と歩いて
  きます。このシーンを観た時、私は「庵野、根性あるじゃん」と思いました。
   自信や根性がないと、どこかでインサートカット入れたり、カメラふったり、いろいろ
  やってごまかしたがるものです。
   彼女ら4人をドリーバックしながら延々と撮影するなんてなかなか出来ることじゃ
  ありません。以前は、「庵野、根性あるじゃん」でしたが、本稿を書いている途中で
  「そうか、お前も 『 お引っ越し 』 にやられちゃったか」と判明しました。

   2011年東京フィルメックスで「台風クラブ」を上映した際のトークショーで三浦友和が
  「当初は、(台風クラブの)面白さがぜんぜんわからなかったけど、最近、見返してみると
  凄い映画に出ていたんだなと感動しましたね。」と語っていた。

   相米の長回し(「水平な時間」)の中にすでに「垂直な時間」が隠されているのかも
  しれません。

   だからこそ、相米は若き映画監督を今でも引きつけるのだと思います。

                                    (了)

                              
                          本文中、敬称は省略させて頂きました。





相米 
相米監督の葬儀の際、緒形 拳が「自分
の葬式に現れて『 今日は何の日ですか 』
といいそうな人でした」と語ったのが
印象的でした。合掌。  







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