素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「 天国の日々 」 (マジックアワーはロケーションの神髄!?) 後編 

 

  
   「天国の日々」の日本公開は80年代になってからであり、単館ロードショーのはしり新宿
  の「シネマスクエアとうきゅう」で観た。当時の印象は、ブルック・アダムスがカーペンターズ
  のカレンに似ているな、夕焼けがきれいだな、リチャードギアの死に方(殺され方)が鮮烈
  だ、これくらいだった。「マジックアワー」なる言葉が世間で流布したのはそれから1~2年
  後のことでした。
   「マジックアワー」は日没後に数十分程体験できる薄明の時間帯であると言われるが、
  太陽が沈みきらなくても雲で隠れていればソフトで暖かい光線がとなり、「マジックアワー」
  同然の効果は得られる。日の出後太陽が登りきらない時、同様に雲で隠れていれば
  「マジックアワー」もどきの素晴らしい光線となる。ミケランジェロ・アントニオーニの「愛のめ
  ぐあい」(1995年)はこの時間帯を多用していたと記憶する。
   「マジックアワー」はわずかな時間を逃すと撮影できなし、その時の天候によって雲の形
  が異なったりすることから再生不能で不可逆な一瞬といえるでしょう。
   チンタラやっていたら撮り損ねてしまうわけでロケ技術のノウハウが問われます。
   「制約」された「再生不能」の映像という意味でロケーションの神髄の一つと思います。

   マジックアワー 富士山
               マジックアワーに富士山を望む。

   そういう意味で私は三谷幸喜が嫌いになった、いや許せなくなったのです。
   何がマジックアワーだ!彼の撮影スタンスほど「マジックアワー」に遠いものはないで
  しょう。彼は映画のわかっている演劇人で好意を持っていましたし、注目していましたが、
  「マジックアワー」の一言でもうダメです。彼の映画で再生不能の一回生を追求したものが
  ありましたか?一方で練りに練ったものが映画だということは承知しています。それは
  それでいいでしょう。(アドリブ一切許さない監督いますね、小津安二郎、マヌエル・オリ
  ヴィエラ等々)彼が練りに練って仕上げていく監督としての力量を持っているとは思えない。
  (脚本家としては別ですが)あっさり言ってしまえば、彼の脚本なら誰が監督でもそこそこ
  の作品になるということです。
   それに映画「ザ・マジックアワー」では、「マフィア」が出てくるでしょ、これも同様に
  許し難い。日本にいるのは「ヤクザ」であって「マフィア」じゃありません。
   いくらフィクションでもこういうウソはいけない。

   さて、本論に戻りましょう。
   一口に「マジックアワー」と言っても日本より緯度の高い国ではもっと長くなります。
   この点は石井岳龍(旧名・聰亙)監督も指摘している。
   「緯度の高いヨーロッパではマジックアワーが長くて羨ましい」と。
   白夜とかある北欧ではどういう光線になるのでしょう。
   マジックアワーかどうか知りませんが、デンマークの巨匠、カール・テホ・ドライヤーの
  「奇跡」の白は日本じゃできないんじゃないかと思います。ネストール・アルメンドロスも
  リスペクトする名手・宮川一夫でもこの自然環境の違いはいかんともし難いんじゃないで
  しょうか?映画にとって光線とはかくも重要なのです。

    三谷幸喜よ!軽々しくマジックアワーなどと言うな!
    
   喜劇はフラットに照明当てるのが基本なのであって光線がどうの言いだしちゃいけない。
   かの「寅さん」もフラットな照明やめて陰翳(いんえい)出し始めてから渥美さんの体調
  に呼応するが如く調子悪くなったではないか。それに何でもアリがお笑いの基本なので
  あって光線という自然条件の「制約」ほど不釣り合いなものはない。
   自然条件の「制約」、光線の「制約」の中でさらに「制約」されたものが「マジックアワー」
  というものだろう。
   つまり、光線の「大吟醸」というわけです。

     ドライヤー 奇跡
      「奇跡」というタイトルに恥じない見事なライティング。
      本作も今や映画の教科書の1本。

  
   さて、「制約」が本作の通奏低音だと述べました。
   (以下、軽くネタバレを含みます。)
   本作から「自然」という役者を抜きとってしまえば男二人、女一人の悲劇がより深く彫琢
  される。
   比較が妥当かどうかわからないが、アントニオ・バンデラス、アンジェリーナ・ジョリー主演
  の「プワゾン」(2001年)では農場主のバンデラスを入れ替わった花嫁・アンジー姐さんが
  翻弄します。どこかファムファタルの香りを漂わせながら。 
   彼女のヒモで仕掛け人のトーマス・ジェーン とバンデラスの間でアンジー姐さんは揺れ動
  きます。本作もより面白くするならそういう展開もありなわけです。でも、ブルック・アダムス
  はファムファタルという香りは微塵もしません。どちらかと言うと敬虔なクリスチャン、モルモ
  ン教徒かアーミッシュのような顔つきです。それに本作ではベッドシーンはおろか、ラブ
  シーンらしいラブシーンもありません。禁欲的なまでの「制約」が見てとれます。
   ある「制約」のもとでの男女の恋愛模様は成瀬巳喜男のメインテーマであり、ウォン・カー
  エイが成瀬を踏襲しています。本作も舞台がテキサスという全米の中で特に「保守」的な土
  地柄であり、時代も20世紀初頭であることから男女は「制約」の中で生きているのです。
   自由恋愛より打算的結婚が当たり前という時代だったと思います。
   昔は自由恋愛など許されなかったわけで結婚は親が定めたもの、家と家のものだったこ
  とは日本のみならず西洋も同じでしょう。
   いいなずけがいるにも拘わらず、他の人を好きになってしまった、これが恋愛小説の始ま
  りのようです。この場合、いいなずけの男は金や地位はあってもお面はイマイチ、もしくは
  人格的に問題があったりして、恋人の方がイケメンでやさしいとかでないと恋愛小説は始ま
  らないということになります。
   本作はどうでしょう。
   別にリチャード・ギアでなくてもサム・シェパードでもいいじゃないですか?
   サム・シェパードだって十分イケメンだと思います。あとは好みの問題です。
   現代だったらここで三角関係になったりしますが、何せ打算的結婚が当たり前の時代で
  すからブルック・アダムスは動機が不純でもサム・シェパードの農場主に愛情を感じ始め
  ます。
   それでも「プアゾン」のトーマス・ジェーンのようにリチャード・ギアが悪党なら劇的効果は
  上がりますが、彼は身を引こうとさせする普通の男です。
   ある「制約」の中でぎりぎりの選択をするしかない男女のほんの些細ないきちがいから生
  まれる悲劇が本作を通俗的な三角関係から救っていると思います。
   悲劇の予兆は“ 隠れた役者 ”= 自然によってもたらされることが格調を高めています。
   黄金(こがね)色の麦の穂が揺れる「天国の日々」は長くは続かなかった。
   麦畑が焼き尽くされる時、三人の「天国の日々」も終わる。
   それしか選択の余地がなかった3人の物語にテレンス・マリックは何ら思索しません。
   「制約」の中で生きるしかなかった人々に思いを巡らせても詮方ないことだと彼も考えたの
  でしょう。(彼の思索ぐせが封じられている。)

   この簡潔さこそ本作を傑作たらしめているのだと思います。
   
   昨今は「何かやるのに遅すぎることはない」とか「いつでもやり直せる」と言った映画がもて
  はやされていますが、人生は不可逆な一回性の「映画」であることも事実です。   
   
   「マジックアワー」の中で繰り広げられる大人の恋愛、年の離れた男女の恋愛映画など観
  てみたいものです。

                            (了)




ロシアハウス
 エスピオナージ(スパイ小説)を原作として
 いるが、実は大人の恋愛映画。
 男、ショーン・コネリー魅せます。


 



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