素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

いわゆる 「 上から目線 」 についての一考察 4



   
   いわゆる「上から目線」について語ってるつもりで、80年代グラフティーのスケッチや「クラ
  ブ論」の入り口へと脱線してきましたが、これらを抜きには「上から目線」については始まら
  ない。
   松岡正剛氏も「千夜千冊」で娼婦、娼館についてふれられているが、「クラブとサロン」でも
  確かロンドンやベルリンの娼館についてふれられていたと記憶している。
   これらを抜きに「クラブ論」もないだろうというわけで私も軽くふれてみます。
   性風俗も単なるエロスと官能の世界にとどまらず文化を生み出してきました。
   花魁は和歌や囲碁、将棋等を嗜み町娘以上の教養を身に着け、江戸時代のファッション
  リーダーでもあったわけです。
   江戸時代、岡場所(私娼)は別としても吉原の花魁(おいらん)ともなれば、いくら権力者が
  カネ積んでも無粋で野暮な客は「あちきは嫌でありんす」と袖にされた。
   

   戦後、売春防止法で公娼が消えてから日蔭の存在だったこの世界が「風俗」と呼ばれ、
  やたら明るく軽くなったのも80年代からです。以後、花魁みたいな存在はどこへやら「風
  俗」の名もとにフラットな存在となり、インターネットの普及によりフラット化の事態は加速
  する。
   人間であり、男女の営みである限り、いくらバーチャル空間が拡大しようとリアルワールド
  は変わらないのであります。
   「クラブ論」の文脈で捉え直すなら、これら「風俗」にも松岡氏指摘の4要件がほぼ当ては
  まります。特に② 市場主義にしてはいけない、③ ゼッタイ不特定多数にしてはいけない、
  は当ててはまると思います。
   80年代以降のフラット化した「風俗」しか知らない人は花魁のような存在に対しては「上か
  ら目線でけしからん」と不平不満をもらすだろうか?もともと歴史的にみればこれら「性風
  俗」にも排除が働くものなのです。 ー 80年代グラフティーとクラブ論が交錯する ー

   もうくどくど申しませんが、ネットの世界も松岡氏指摘の、①、②、④が当てはまると思い
  ます。(該当しないのは③だけではないでしょうか?)
   特に「掲示板」は④ ツール、ルール、ロールのうちツール以外はピタリと符号する。
   ルールについては言わずもがなだが、ロールについて言うと”荒らし ”のような書き込み
  する人、工作員も一つのロールを演じているのだとフィルタリングして読んだらいい(笑い)。

   ネット上でいろいろ摩擦、軋轢生じるのは本来バーチャル「クラブ&サロン」であるはずの
  ところに「不特定多数を対象とする」が加わるからです。あたしはやらないことからSNSは
  知らないが、ネットは不特定多数を相手にするわりには松岡氏懸念のように伝統的「クラブ
  &サロン」が生み出した「政党」「新聞」に匹敵するものを生み出していないように思える。
   せいぜい、ネットショッピング、ヤフオフくらいか。目立つのは“ 炎上 ”くらいのような気も
  するのだが・・・・。いやいや、良いか悪いかは知らないが、伝統的「クラブ&サロン」が生み
  出せなかった事態が起こっている。
   現代が1億総評論家時代になったということです。
   アマゾンレビューやみんなの映画レビューとかあちらこちらにレビューと称するものが溢れ
  ています。中には「著者の上から目線ぶりに不快感を覚える」とかコメントする人もいます。
   でもちょっと待って下さい。
   「評価」というのはその語源から明らかなようにそもそも「上から目線」なのです。
   すなわち、レビューする人は、全員もれなくその作品、商品について「上から目線」なの
  です。
   自分が「上から目線」なのに相手が「上から目線」なのはけしからんとは奇妙なことです。
   (商品の場合、「お客さま」ですからそうかもしれませんが、作品の場合、違うでしょう。)
   もっともこれらレビューと称するものは印象批評が大半です。私は印象批評は、批評、評
  価ではないと思っています。そういう意味ではフラットな批評、横から目線の評価というも
  のもあるのかもしれません。

   でも、それは本来的意味の評価とはいえない。
   語源とは別に具体的に説明しましょう。例え買う気がなくてもマンションは億ションから見
  るのがいいと言われます。そうすればグレードが下がるにつれて何が欠けているのか、何
  が劣るかよくかるようになるからです。評価というものはすべてこれと同じだと思います。
   最高級と言われるもの、若しくは自分が最高と信じるものを知らずして何かを評価するこ
  となど出来ないのです。最高級と言われるものから何かを見て品定めするなら、どうしたっ
  てその視線は「上から目線」になるとは思いませんか?
   1億総評論家という事態が「上から目線」嫌悪に寄与しているといえるでしょう。

   
   私は学生の頃から俺様な(「上から目線」の)連中とばかりつき合ってきましたし、飲み屋
  で面白くない奴はいじめられるという環境で過ごしてきました。 
   ですから、しょちゅう、「上から目線」と「上から目線」がぶつかるのです。
   マイルド&デオドラント時代の昨今、うっとうしがられますが面と向かって言いあうことも
  大事だと思います。ケンカしたりもしますが、諸々、はっきりすればお互い認めあう関係にも
  なれると考えます。そうではなくて匿名性のネットで「上から目線」の罵詈雑言を吐いている
  とやがて本人の精神がおかしくなります。そのためか、統合失調になった後輩が身近にい
  ます。

   もっとも「上から目線」もいけない場合があると思います。
   圧倒的力量の差がある場合、「上から目線」はアカンと思うのです。
   出来る限り同じ目線に降りていってやるのが大人でしょう。圧倒的力量の差があって、な
  おかつ「上から目線」で言ってもいいのは徒弟制社会だけです。
  (私はそういう世界も知っている)
   そこそこの力量の差では「上から目線」でものを言う役を演じるものとこれに従う役を
  演じるもののロールプレイとなります。すなわち、サラリーマンの上司と部下です。
   同級生とかフラットな関係では、そもそも「上から目線」とか「ドヤ顔」はギャグの
  対象でしょう。ギャグの対象でしかない関係にいきり立っているお前(私)は何なんだと
  言われてしまうかもしれません。

   でも、モノを知りもしないくせに押しつけがましい奴、権威主義、官僚主義には、本来
  ギャグである「上から目線」というフレーズさえも使って闘わないわけにはいかないのです。 

                                          (了)  




  PS.先日、地元の喫茶店で例の独文一派の「読書会」に後に参加した後輩のTTを見か
     けた。彼は読書に集中しているし、私は「さて、今日はブログに何を書こうかしらん」
     と思案していたことから声をかけずにやり過ごした。何を読んでいるのかと目をこらす
     と松本清帳の「昭和史発掘」だった。ポストモダン哲学キッズの間隙にして終着点は
     「歴史」であるという私の仮説はやはり正しいのではないかと再確認しました。
     「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマが過去の人なのだから、「反対の反対は賛成
     なのだ」というバカボンのパパ式論法でいえば、やはり「歴史」ということになります。 
     もっとも、そういうお年頃なんだけどね。








スポンサーサイト

社会 | コメント:0 |
<<世界が見ている歴史が見ている都知事選 | ホーム | いわゆる 「 上から目線 」 についての一考察 3>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |