素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「 皇帝のいない八月 」 (現在、日本に政治・情報映画は可能か?) 後編

   



   前回述べた三者の視点は、本作公開当時(78年)、監督・山本薩夫を含め誰も理解でき
  なかった。鹿島、中条、呉の三氏すらまだ漠然とした思いでしかなかったと思う。
   だから、遅れてきた三島たる藤崎の言動にみんなドン引きとなった。
   それでは現代では事情は変わるのだろうか?三者のような視点を持ち得る人もいるが、
  大多数は公開当時と変わらないか、さもなければ藤崎(⇒ 三島)の思想の純粋性にしびれ
  てしまう人たちだろう。このような思想の純粋性を唯一の拠り所とする右翼が将来、出現す
  ることを三島はとっくの昔に見切っていた。「11.25」(1970年)よりもっと前、60年代初
  頭すなわち約50年前に。
   そんな思想の純粋性を唯一の拠り所とする右翼に三島は「喜びの琴」で痛烈な一撃をお
  見舞いしていることは以前、述べた通りであります。
   では、「11.25」における三島の主張は単なる方便なのかと言うと、もちろん、そんなこと
  はないのです。表層的には喜劇、その次の層には三島が好んだであろうギリシャ悲劇のよ
  うな純粋性を保持し、深層は何重にも折りたたまれた倒錯劇を内蔵しているのが三島が
  市ヶ谷駐屯地でおこした「11.25」というクーデター未遂事件なのです。

   
   さて本論に戻ろう。
   現代において本作をリメイクした政治・情報映画は可能だろうか?
   何をいうか、現代の方が自衛隊の主張(憲法改正)に説得力があり、テロ計画、政府の
  対応についてサイバー環境の整備によって情報収集が容易であることからずっと上出来な
  映画ができると考える人もいるだろう。
   「相棒」などに見られるようにもっと緻密にテロ計画の解析が可能でよりサスペンスフルな
  演出が可能と思われる。以前は不可能だったハリウッド並みのロケーションが可能となった 
  「SP」なんて映画もあるし、自衛隊への取材は「亡国のイージス」の方が本作より優れて
  いるかもしれない。
   多くの人が指摘するように鎮圧する側の特殊部隊の突入劇のちゃっちさ等々、いろいろ
  欠点を内包しながらも本作は今の映画にない「何か」があるように思えてならないのです。
   換言するなら現代では本作に存する「何か」を具備した政治・情報映画は作れないように
  思えてならない。
   「何か」とは「昭和の映画」と「平成の映画」の違いです!?
   そんな風に安直に片づけてはいけません(笑い)。
   
   まず、三谷幸喜がオールスター映画を作っても、そもそも映画会社の屋台骨を支えるよう
  なスターなんて現代には存在しない。それについては目をつぶり、三谷氏の映画が喜劇だ
  ということを割りびいても今日のオールスターはどこかパロディアスだと思う。
   役者たちの演技バトルなどあるのかしらん。多くの観客が思い描く各役者のイメージ、
  キャラをなぞっているだけのような気がする。それは昔も同じことかもしれないが、現代
  ではデフォルメされてパロディアスだと思うのです。本作の三国連太郎、佐分利信、太地
  喜和子はみんなのイメージどおりの演技だがパロディアスではない。
   御注文どおりの“ 仕事 ” しているだけだ。
   当時より現代の方が警察小説は充実しているし優れたノンフィクションも少なくない。
   はっきり言ってこの手の映画の脚本のレベルは現代の方が優っていると考える。
   今日では本作の「何か」の代わりにゲーム性、エンタメ性が強調されている。
   パロディー、ゲーム性、エンタメ性、これらの真逆が本作に横溢する「何か」だと思う。

   日本人は「社会派」とかレッテル貼るのが好きだけれど、監督・山本薩夫は筋金入りの
  赤い監督だからこそ本作が可能となったのです。
   筋金入りの人にとってパロディーやゲームは関係ないことだ。
   もっとも表面的な今日的エンタメ性は無くても山本監督はきっちりと「商品」に仕上げる
  術は心得ていた。要するに彼にとっては否定すべき権力側の悪を魅力的に描けたわけ
  です。このあたりがうすら甘いサヨクと違うところかもしれない。
   コマーシャリズムの厳しさを熟知している。

   赤い映画監督というと、一昨年なくなった若松孝二が思い浮かぶ。
   「実録・連合赤軍」は3時間を超す長尺で耐えられるかと思ったものだが、前半は「仁義な
  き戦い」のようで実に面白い。
  (終盤、「総括」、「自己批判」の場面は目をそむけたくなったが)
   別に若松監督も山本監督もエンタメ性を強調しているわけではない。どんなに深刻な事
  態だろうと人間ドラマとして面白いからこそ映画にしたわけであって、そこを追求しただけ
  のことだと思う。
   エンドクレジットロールにかかって過去40数年にわたる世界の左翼、過激派のテロ事件
  が延々と列挙されるのを見て私には若松監督の「本気」がひしひしと伝わり、これは保守だ
  ろうと右翼だろうと割目して見るべき映画だと思ったものでした。
   立場は真逆でも「本気」という点で若松孝二は三島由紀夫に通じる。
   そういえば若松監督は三島の「11.25」を題材にした「11.25 三島由紀夫と若者たち」
  という映画も撮っている。
   資金難からか若松監督は自分の別荘を「あさま山荘」に見立ててぶっ壊してしまった。
   三島も私財を投げ打って「楯の会」を作った。
   現代では、この「本気」がないからこそ政治・情報映画はつくれるのかと訝しくなるのだ。 


              連合赤軍

 
   そうは言っても所詮、映画はフィクション。
   リアルに現実にコミットする政治家の中にも「本気」、「覚悟」が危うい人が少なくない。
   彼らは選挙のことばかり考えている。そのくせ「三島が・・・」とすり寄ってくる様は三島
  本人にしたら悪い冗談だろう。そんな倒錯劇が常態化した現代ではパロディーこそ似つか
  わしいのかもしれない。もちろん、三島はそんな彼ら政治家にも一発お見舞いすることを
  忘れない。自決直前の最後のインタビューでこう語っている。

    「ぼくはそうやすやすと敵の手には乗りません。敵というのは、政府であり、自民党
     であり、戦後体制の全部ですよ。社会党も共産党も含まれます。ぼくにとっては、
     共産党と自民党とは同じものですからね。まったく同じものです。どちらも偽善の
     象徴ですから。ぼくは、この連中の手にはぜったい乗りません。いまに見ていてく
     ださい。ぼくがどういうことをやるか(大笑い)」
    
                ~ 「群像 日本の作家 三島由紀夫 」~

   
   こう言い残して1970年11月25日、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起した。


   政治映画はともかく現代でも「人類資金」のような情報の機微にふれるような映画は作ら
  れている。それらがパロディーだとは言わないが、どうもプロパガンダだと思えてしまうの
  です。それは「相棒 XDAY」にも当てはまります。
   両作品とも情報解析の描写は本作よりも緻密で優れていると思います。
   そうだからこそ多くの人は、その中に仕掛けられたもっともらしいワナに気づくことなく
  一定の方向に誘導されていくのです。
   ハリウッドではCIAを題材にした映画がいくらでもあります。
   日本にもNSCが出来たのですからプロパガンダではない情報映画が出来てもいいと思う
  のです。現実的にはハリウッドのようなCIAすっぱ抜き映画、日本ではNSCから漏れて
  くる驚愕の情報映画など出来ないでしょう。なんたって日本には秘密保護法があるのです
  から。
   それにマスゴミは今や御用記事しか書かないですし、映画界にも若松孝二のような映画
  人もいなくなりました。

   日本で本格的情報映画が作られる時は日本の政治とマスゴミが変わった時でしょう。

   まだだいぶ先のことのように思います

                     (了)



皇帝にいない八月
渡瀬恒彦に抱かれると吉永小百合が
大原麗子っぽい顔になるはどうした
ことか。


  〔関連記事〕

   「架空劇場 『 喜びの琴 』 」

   映画「人類資金」





 




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