素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「 渇き。 」 前編

    



     新作を劇場で観る機会がめっきり減ったのだが、これは見逃してならないと思った1本
    です。(と言いつつ観られず上映終了になんとか間に合った。)
     前作「告白」が松 たか子の抑えた演技が醸し出す静謐な世界といびつな世界がぎし
    ぎしと音を立ててせめぎ合う映画でした。
     さて、今回は何を見せてくれるかと思ったら、一層アンビバレントな程度が露わになっ  
    ていた。
     「分断」と「粘着性」が収集がつかないまま放りだされている。
     オープニングで全編の予告編のような映像が顔のアップの多用を中心に単なるカット
    バックでもフラッシュバックでも回想シーンともつかいない「分断」ショットの積み重ねで
    示される。(ちょっとラース・フォン・トリュアーの「メランコリア」みたいだ。)

     中島監督は超スローモーションを好んだりする。
     これは「分断」とは真逆の彼の「粘着性」を示している。本作でも「分断」と共に「粘着
    性」が見てとれる。それは表現様式ではなく父親役の役所広司の演技として現れてい
    る。元刑事の父親は、わめく、暴れる、怒鳴ると感情むき出しで思いのまま動く。
     実にうっとうしい存在で、普通彼に感情移入できないだろう。この点、森口先生(松
    たか子)に感情移入できた「告白」とは大きく異なる。

     「粘着性」は「過剰」と置き換えることができる。 
     絢爛たるテクニックがあるにもかかわらず、「そんなもの蹴飛ばしてやる」と言わんば
    かりの「過剰」を主人公に託す様は、同様にマニエリストになってもおかしくなかった
    池田敏春の「人魚伝説」、レオス・カラックスの「ホーリーモーターズ」に通じるものが
    ある。
     
     草食男子とは真逆のむさくてくどいオヤジたる藤島昭和(役所広司)の粘着性と過剰
    は本作の謎にしてダイナモであります。何故、彼はズタボロ、血まみれになっても娘
    加奈子(小松菜奈)を探し続けるのかは親心だけでは割り切れない。暴力シーンや血
    まみれシーンが不愉快だと言う人も多いだろうが、それよりも私は昭和(役所)のキャラ
    クターが最後までわからなかった。
     敢えて言うなら中島哲也監督の粘着性と過剰の化身と思いたい。
     この粘着性は、終盤、愛川刑事(オダギリジョー)との対決シーンでも存分に発揮され
    る。血みどろのバトルを繰り広げながらも二人ともなかなか死なない(笑い)。
     「ウソだろ」と思わず突っ込み入れたくなるが、これはリアリティーを超えた粘着性の権
    化そのもので、「太陽を盗んだ男」における沢田研二と菅原文太のバトルシーンを思い
    だした。「太陽を盗んだ男」はもはや突き抜けていた、もはや笑うしかないのだが、本作
    は笑えない。このあたりも評価の分かれるポイントだろう。
     「いや、この映画に笑いはいらないんだよ」と中島監督は言うだろうか?
     
     原作はミステリーであり、ある種の“ お宝探し ”の物語であるはずだ。
     本作もミステリーとしての“ お宝捜し ”であると共に娘の捜索という“ お宝探し ”という
    物語でも提示される。(「告白」もミステリーだった。母親というお宝と爆弾というお宝が
    最後に見事にクロスする。見事すぎてパズルのようだという批判もあるが)
     本来、お宝(であるはず)の娘を探したものの、お宝どころか暗黒生物、悪魔の化身の
    ような存在だったわけで、普通の映画ならここで“ お宝の不在という物語 ”が提示され
    るはずなのだが・・・・・・。

     お宝どころか、毒ヘビ入りの宝石箱のような娘と承知してからも昭和は必要に娘を探
    し続ける。
     彼を突き動かしているものが何なのか、私には、結局、わからなかった。

                                        (つづく)








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