素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「渇き。」 中編

    



〔21世紀のエンタメ化?〕 

                                 以下、ネタバレを含みます。

     本作のタイトルはグラインドムービーのようです。 
     ほとんどの登場人物に感情移入できないこの映画も中島監督はエンタメ化したい
    ということか。これがエンタメのはずないじゃないか。確かにその通りだが、私の言
    うエンタメとは20世紀的なクソリアリズムとストレートストーリーのアンチとしてのエ
    ンタメ化のことであります。
     21世紀になってからリアリズム映画(ストレートストーリー)は旗色がわるい。
     今や絶滅危惧種かもしれない。
     
     たまたま黒木和雄監督「原子力戦争」(78年)をケーブルTVで観たのだが、田原
    総一朗原作を20世紀的意味でエンタメ化している。(脚本は「仁義の墓場」の鴨井
    達比古!)原発立地の田舎町に現れたトルコ嬢(今でいうソープ嬢)のヒモ役の原田
    芳男はあくまで自分の女を捜しにきただけなのだが、警察、ヤクザ、地元民、原発
    (暗に政治家)も含めたミニ原発ムラの不気味な力を知るに至る。
     原田の役柄がジャーナリストなどだったらこの映画はドライブしない。
     それなら岩波映画の原発ドキュメンタリーをつくったらいい。岩波映画が知悉する
    黒木監督はそんなことはしない。アウトロー役の原田が自分の女を探すという筋立
    てがエンタメ化であります。(もっとも地元新聞記者役の佐藤 慶が絡んでくるのだ   
    が)アウトロー原田は感情むき出しで田舎町では波紋を広げるのだが、もちろん原
    田はウマイし、佐藤 慶もさりげなく存在感を示し、何ら違和感がない。
     素材(原発)をこのようにうまいこと料理することが20世紀のエンタメ化でした。
     それは演出の要請でもありました。粘着性では人後のおちない今村昌平だって
    オーバーアクトは極力排した。役者が入り込まないとできないような演技を彼は要
    求するが役者が入り込み過ぎると「刈り取る」と今村は語っていた。
     考えてみればオーバーアクトの名作ってどれくらいあっただろうか? 

     これが20世紀に我々が映画を観て自然に学んだ常識だったのではないか?
     ところが本作の役所広司のオーバーアクトはどうしたことだ。
     未読だが、原作では徐々に粗暴になるという父・藤島秋弘(映画では昭和)が最
    初から感情むき出しのオーバーアクト、これは中島監督の指示によるものだろう。
     やはり、父・昭和には感情移入できない、これが普通の観客ではないか。
     「感情移入?そんなもの古いんだよ。俺はクソリアリズムでない俺の世界を観せ
    たいんだよ。でも感情だけはむき出しさ」、そう中島監督は言いたいのかしらん。

                                               (つづく)



         小松采奈
          誰にも感情移入できないと言ったが、彼女が魅力的なこと
          は間違いない。
          本作唯一の「映画」たり得ているのは小松采奈の起用だろう。







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