素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

昭和天皇のご意思 vs 反東京裁判史観 VOL.2

 



 〔大正時代の裕仁皇太子〕

    「昭和ブーム」が続いている。
    もはや一過性のものではなく「昭和は遠くなりにけり」という具合に時代が下れば下るほ
   どこの趨勢は確固たるものとなるだろう。 
    「昭和天皇」は「昭和」と不可一体分であり、「昭和天皇」というと「昭和」(戦前、戦中、
   戦後も含めて)を体現していると多くの人が考えていると思う。
    つまり「大正」とは隔絶した存在として「昭和天皇」を捉えていないだろうか?
    当たり前のことだが、昭和天皇は昭和と共に忽然と姿を現したわけではない。
    昭和天皇が青春を過ごされた大正時代、モダニズムの時代、裕仁皇太子時代が存在す
   る。まして大正天皇は御病弱で裕仁皇太子は大正10年から摂政に即位されている。
    実質的な昭和天皇の御代はこの時から始まったといっても言い過ぎではないだろう。
    天皇に即位する前、裕仁皇太子をとりまく状況とはいかなるものだったのだろうか? 

    戦前、「現人神」だった天皇が戦後、人間宣言されて全国を巡幸されたことを我々は承
   知している。
    最近、私は戦後の人間天皇の萌芽は大正時代にあるように考え始めた。
    天皇ではなく、皇太子というお立場だが、裕仁皇太子は全国を巡啓されて国民との距離
   を縮めたかったように思う。
    将来の「現人神」がこんなことをするだろうか?

     九月三日、皇太子が予定通り帰国した。
     横浜に上陸した皇太子は、御召列車で東京に向かったが、その車中で沿線に
     集まり、万歳を叫ぶ人々に対して、硝子(ガラス)を排されて、其処(そこ)に
     稍(やや)御体を前方に曲(かが)ませられて、奉仰の人々の誠心を受させられ」
     (「東京朝日新聞」九月四日。原文ふりがななし)るという動作を見せられた。

                        ~ 原 武史 著 「大正天皇」 ~
   

     今では、戦後では当たり前のことのようだが、これ以前は御召列車が通過する時、沿
    線で万歳三唱することは禁じられていた。この時、裕仁皇太子は人々に応えるようにガ
    ラスを開け身を乗り出さんがいきおいだ。
     昭和になってから、「現人神」たる天皇になってからはこんなことはお出来にならかっ
    たと思う。それは皇太子と天皇をいうお立場の違いというより「大正」と「昭和」(戦前)と
    いう時代の違いに負うところが大きいと考える。
     外遊とはイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの五ヶ国御訪問のことだ
    が、どこへ行っても皇太子は熱狂的歓迎を受けたという。大正天皇の御病気悪化のた
    めに皇太子の摂政即位が真剣に考えられ始めたのもこの頃だ。
     この外遊には活動写真(ニュース映画)班が同行した。
     摂政即位にあたって裕仁皇太子を国民に知らしめるという意図もあっただろうが、
    「現人神」の天皇をめざしていたら、撮影という行為も許されなかったのではないか?
     「明治」や「昭和(戦前)」と違い、「大正」とはそういう時代だったのだと思う。

     皇太子帰国後、日比谷公園で市民奉祝会が催された。
     ここでの裕仁皇太子と国民との距離は私の常識を完全にくつがえすものであります。

      この奉祝会には、約三万四千人もの人々が集まったが、その中には三等
      郵便局長や私立小学校長のような、従来の儀礼では参列することが許さ
      れなかった市民が数多く含まれていた。外遊の活動写真が上映されたの
      と同じ場所に一般市民が集まり、皇太子が実際に現れて生身の身体を見
      せるという形式は、「皇室尊崇の念を一層深甚ならしむ」べく、東京市長の
      後藤新平が発案したものであった。
      それだけではない。この奉祝会では、後藤が皇太子に捧げる「賀表」を述
      べた後で、台座にいた皇太子が、市民にむかって次のような「令旨」を読み
      上げたのである。
                    (中略)

      これはまさに、驚くべきことであった。「此思い設けぬ御言葉に場内は全く感
      激して一斉に気色ばむ」(「東京朝日新聞」九月九日)。寡黙であるはずの
      皇太子が、一般市民を前に「隅々にも響きわたる底力ある」(同)肉声を発し
      たのである。
                            ~ 引用同上 以下同様 ~

    
     私の親は「玉音放送」で初めて昭和天皇の肉声を聞いたという。
     戦前の多くの国民がそうであったろう。今でいう園遊会よりもかなり大きな規模なの
    だろうが、大正時代、裕仁皇太子の肉声を聞いた人々が存在したのだ。
     大正時代、天皇を「現人神」ではなく人間天皇する動きは存在したのです。
     いや、そうせざるを得ない事情があったと言った方がいいだろう。

      大正天皇の病気が公表され、天皇は脳を患っているという風説が広がった
      以上、もはや天皇が、かつての明治天皇のように、国民の視線から遮断され
      たところで、「神」として崇拝されることはあり得なかった。
      政府の戦略は、裕仁皇太子という新しい皇室シンボルを、観念的で見えない
      「現人神」でなく、逆にその表情や肉声まで万民のもとにさらされる、見える
      「人間」とすることにあった。

                      
    近代史、天皇研究を専らとする人ならともかく一般国民にとって天皇とは明治、大正、
   戦前とずっと「現人神」であった、いや「現人神」たらんとしていたと考えていないだろ
   うか?      
    明治天皇のように国民にとっては御簾の奥に隠れた存在ではなく、人間天皇を政府は
   指向していたし、外遊して開明的な西洋近代にもふれた裕仁皇太子も「現人神」たらんと
   は決してお考えにならなかったはずだ。

    人間天皇宣言は戦後だが、その萌芽は大正時代に既に芽吹いていたのだ。

    ところがここから事態は130Rのように急展開することになる。

                                       (つづく)    







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