素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

高倉 健、菅原 文太の逝去に思う。

     



     高倉 健さんに続くかのように菅原 文太さんが亡くなられた。
     健さんには既に多くの特集が組まれている。
     文太さんの逸話もあれやこれや出てくるだろう。
     映画の中の二人は対照的だといっていいと考える。
     健さんは「任侠」、文太さんは「仁義なき世界」だ。
     そもそも映画の時代背景が異なる。健さんの場合は、明治から戦前、文太さんは戦後
    なのだから。

     「網走番外地」などは由利 徹、田中 邦衛といったコメディアンを配し、おちゃらけ調
    もあるのだが、健さん自身はあくまでもストイックでコメディーの要素はほとんどない。
     一方、文太さんは「トラック野郎」に顕著なのだが、「ダイナマイトどんどん」などの諸作
    にはコメディーの要素、満載だ。(そもそも「仁義なき戦い」も結構、笑えるシーンがある
    のです。詰めた小指が見当たらなくなり、「どこだ、どこだ」と探したりする。)
     
     この二人の映画は別の世界だが、スクリーンを離れた二人は映画とは異なり同じ世界
    に生きていた。映画のヒーローは実像とは異なるが、健さんは厳しく優しく、特に弱者に
    は撤退的に優しかったという。文太さんは晩年、脱原発とか社会的発言が目立った。
     二人とも「仁」、「任侠」の世界を全うした。
     そんな二人が現在の日本で相ついで逝去されたことは単なる偶然か、それとも天の配
    剤か?私は後者だと考える。今日、高倉 健、菅原 文太的なものは受け入れられな
    い、影が薄い。新自由主義派の唱える「競争」は、「仁」、「任侠」とは絶対に相入れない。
     コンプライアンス時代に義理・人情も通じない。
     つまり、現代には古くさくて時代遅れの産物ということになる。
     それでも健さんや文太さんを偲ぶ声が後を絶たないのはオールドファンの単なるノスタ
    ルジアか?
     そうに決まっているさ、今や「任侠」 ⇒ 「仁義なき戦い」 ⇒ 「アウトレイジ」の世界がリ
    アルだもの。
     そう思われる方が多いだろうが、そうとも言えないようだ。ヤクザ世界に通暁した溝口
    敦氏のコラム「大暴力団は消え 高倉 健的ヤクザになる」が参考になる。

       暴力団は現在、岐路に立っている。千人単位、万人単位の組員を持つ
       大組織はいずれ崩壊するだろう。規模が大きいメリットは上層部だけが
       受け取り、下層組員は月会費を徴収されるだけで、何のメリットもない。
       だいたい暴力団同士がケンカをしない、抗争をしないのだから、大暴力
       団である必要はない。大暴力団はたしかに名が通っているが、今や組
       名入りの名刺を切れない時代だから、大暴力団に属するメリットはあま  
       りない。    
                (中略)

       というわけで、暴力団が辛うじて残るとしたら、街の顔役として存続する。
       人と人の間のトラブルを解決し、人と人とをつなぐ仲介役として残る可能
       性はある。生活の糧となるのはそうした行為への礼金である。
       組の規模はせいぜい組員数が20人程度。組員のシノギも基本は礼金
       になる。理由なく住民から恐喝して嫌われるわけにいかないからだ。
       その中には暴力団対策法で禁じられているみかじめ料や用心棒代、ツ
       ケの代理回収など、債権取り立ても含もう。
       要するに高倉 健的ヤクザへの回帰である。(後略)

                  ~ 日刊ゲンダイ 溝口 敦の斬り込み時評 ~

                
     常日頃、ベンさんは「任侠に生きる人達は~」とか口にするが、東映ヤクザ映画と現実
    は違うよと私は醒めた視線でみていた。溝口氏の見解が正しいなら、ベンさんのいうこと
    は的外れじゃない。
     ヤクザ世界はともかく、コンプライアンスは「義理と人情」の日本人に全く馴染まない。
     別に日本に限らず、どんなにギリギリと規制して「コンプラ、コンプラ」といったところ
    で、それらをスルーするセレブ、VIPが世界には確実に存在する。

     宗教的倫理観でなくて「武士道」のエポゴーネン、― 庶民の「おてんとうさんが見てい
    る、みっともないことはするな」―、 これらによって自らを律する日本人にかつて西欧人
    は驚嘆した。 
     「日本を取り戻す」なら、こういう日本に戻ることでじゃないか。
     それは単に「道徳教育」を復活させて済むことではないことは言うまでもない。

     高倉 健さん、菅原 文太さんのご冥福をお祈りします。      



  〔関連記事〕

   コンプライアンスの時代に「義理と人情」を考える 前編

   コンプライアンスの時代に「義理と人情」を考える 後編









スポンサーサイト

社会 | コメント:0 |
<<消費税はいらない。 前編 | ホーム | アベノミクスは1.5本しか的を射ていない>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |