素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「セッション」


きっかけはいきつけの新宿のバーでのことだった。
バーテンダーに「何か面白い映画ない?」ときくと、彼は「セッション」のパンフを取り出して「30
歳の俊英が撮ったやつですが、期待できるんじゃないですか?」と返した。
「何だかんでいってアメリカは出てくるね~」と私。

かなり期待して先週の日曜日に映画館に出かける。
PCが不調で予約できず、直接劇場に出かけることになったのだが、40分前で満席、1時間前で
もダメ、1時間半前でもsold out.。凄い人気だね~。
結局、その日は観れずじまいで、ようやくウィークデーに観れました。

(以下、軽くネタバレを含みます。)

この映画を巡って映画評論家・町山智浩氏とナルちゃん(菊池成孔氏)の「セッション」(場外乱
闘)がネット上で行われているようだが、結局のところ、いい宣伝になったのではないかしらん。
論点を整理するとジャズがわかっているいないは本質的なことではない。
「ミリオンダラーベイビー」が女ボクシングの映画だと括れないし、「剣山 点の記」は登山の映
画ではなく徒労の映画であるように。(監督の木村大作氏の発言、「徒労の先に男の人生が
ある」は私のお気に入りの言葉だ。)

ジャズの映画というより、鬼バンマスとドラマー志願の青年の「セッション」の映画でしょう。
そのセッションが映画的であるか否か、面白いかどうか、ここに評価の力点が置かれるべきで
あろう。
もっとも、ナルちゃんの主張も一理も二理もあるのです。
「今、アメリカのジャズってあんな感じなの?」って、私も物凄く違和感ありました。
ナルちゃんの主張、「音楽大学でスパルタ式に教えるのはジャズを『 二流のクラシック 』 と
して衰退させる行為だ」ーー 全くもって同感であります。
私の記憶が確かならば、ナルちゃんは指揮者というポジションの傲慢さがイヤでクラシックの
世界から足を洗ったのだから、J.Kシモンズ演じるところのフレッチャー先生という専制君主が
そもそも鼻もちならない存在なのだ。その分だけ、彼のレビューには私的感情が入っている。
プーさん(菊地雅章さん)の鬼バンマスのもとでの経験から、そうはいっても音楽が仕上がった
時すべてが許せる体験についても述壊しているのだが。

J・K・シモンズ演じるフレッチャー先生とマイルズ・テラー演じるニューマンのセッションに映画的
価値の審級があると述べましたが、観客(評者)のポイントはジャズがわかっているか否かでは
なく、徒弟制を知っているか否かだと私は考える。
ジャズの世界の徒弟制は知らないが、私も徒弟制の中にいたことがあることから、どちらかと
言うとナルちゃんの側に片足を突っ込んだスタンスかもしれない。
ナルちゃんは「この程度の鬼バンマスは、実際の所、さほど珍しくはない」と言っていますが、
私の経験から言うと、怒鳴るとかハード路線だけではそれほどでもないのです。ネチネチと陰
湿なソフト路線とハード路線が交互に来るダメージはフッチャー先生など目じゃない。ナルちゃ
んの言わんとすることはよ~くわかる。そんなもんじゃね~ということだ。

さて、二人の「セッション」は実はありきたりの「物語」だということを押さえておこう。
ラストを除いては鬼教官とドラマー志願の青年の夢と傲慢と軽い挫折と再生(リベンジ)と言う
実に「紋切型」の物語だ。
別に紋切り型が悪いと言っているのでなくて、ダニエル・シュミット曰くのように「あらゆる様式
と戯れて紋切り型に落ち着く」というのは、それはそれで映画的に素晴らしいことだろう。
でも、本作の紋切り型の「物語」にはどこにも映画的魅力も新しさもないと私はみた。
(ドラマーものの定番?手を怪我してドラム叩けないという設定も紋切り型ーー 「嵐を呼ぶ男」)

そうすると、この映画の評価が分かれるところは、畢竟、マイルズ・テラーとJ・K・シモンズのラ
ストセッションがカタルシス生むか否か、この1点に尽きるのではないか。(この点、町山氏とナ
ルちゃんの評価が真っ二つに分かれるところだ。)
結論からいうと、私はナルちゃん同様、何のカタルシスも感じなかった。
何のカタルシスも生まず、イヤ味しか残さないけどもいい映画はなんぼでもあります。
例えば、ラース・フォン・トリュアーの「ニンフォマニアック」などドストエフスキー的おちは途中
で読めたけれど、「またかいな、トリュアーさんよ、お前はホント暗いね」と思いつつ、決して
出来の悪い映画ではない。特にVOL.1は今年観た映画では上位にランクする。

本作の場合、音楽、特にドラミングというアクションが核となるのだからカタルシスを生まないと
まずいのです。アンドリュー(マイルズ・テラー)がリベンジしてフレッチャー先生(J・k・シモンズ)
と共に音楽と一体化していたと読む人がいるとしたら、それは「徒弟制」を知らない観客のミス
リードである。
フレッチャー先生は、アンドリューのリベンジすら自分の手柄にしてしまうようなしたたかさがあ
るのです。私など何度も経験したことだ。「俺がほとんどやったのに全部あんたの手柄かよ」と。
これがアメリカの「競争社会」、「Show Bizの世界」といえば、さもありなんというものだけど。
町山氏曰くのロッキーのラストのように「やった!」と拳を突き上げるようなことには決してなら
ない。

それとは無縁にあのラストを‟ 黒いご都合主義 "としてもロバート・アルトマン「プレイヤー」の
ようにはしっくりこない。映画においてラストのご都合主義って作品の出来不出来、監督の力量
を計るバロメーターとなるものです。
ご都合主義やるなら、アンドリューがドラム叩けなくなっても突然歌いだして、それが案外美声
でみんながあっけにとられているすきに・・・・・というくらいの芸当やってくれないと。
「おいらはドラマー♪ やくざなドラマー♪」って具合にね(笑い)。やっぱり日活は偉かった。

さらに何であのラストがカタルシスを生まないか全く別の角度からも論証できる。
あれはアンドリューとフレッチャー先生のエゴのぶつかり合いでしかない。
ジャズのインプロビゼーションとか超絶技巧の素晴らしい瞬間って必ずエゴが消えているはず
なんだよね。グルーブが下りてくるか、音楽の神が下りてくるか、要するに何かが上から下りて
きてエゴが消えちゃうんだと思う。
アンドリュリューのドラミングにはそれが感じられない。
うまい、へたの問題ではなくフレッチャー先生の教わったことも織り交ぜて「ぼく、こんなこと
も出来るんだ」というエゴでしかない。

町山氏、世界が絶賛するほどの出来の映画でもなければ、ナルちゃんが酷評するほどの映画
でもない。普通の映画でしょ、それが私の評価です。
オスカーを撮ったって!むき出しの荒々しさが嫌いだった淀川長治さんならこういうでしょう。

「ハリウッド(アカデミー)もバカになりましてね~」と。



セッション
日本人の心性とミスマッチなこの映画が
かくももてはやされるのか、よくわかりま
せんな~。







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