素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

映画 「 神々のたそがれ 」 前編

   
  


     本年度、最大の問題作の一つとされるアレクセイ・ゲルマン監督の遺作「神々のたそ
    がれ」を親友 I と観に行く。 原作はアンドレ・タルコフスキーの「ストーカー」の原作スト
    ルガツキー兄弟。あの映画も難解で実は今だに全編解き明かしたとは程遠い状態だ。
    (もっとも宮崎 駿も途中で投げ出したというから、ま、いいか ← これは本稿の結論に
     もつながる。)


  〔どこにいるのかわからない〕

    未知だけどどこか懐かしいものに人は愛を感じる。
    逆に既知のはずなのにどこか違和感のあるものには親しみを感じることなく、嫌悪感す
   ら憶えるものです。
    本作は地球よりも800年遅れた、いまだルネサンスが始まらない「中世」のままの地球
   とそっくりの惑星に現代の地球人が降り立ったという設定です。
    これと逆パターンのSF映画の古典的名作は言わずと知れた「猿の惑星」だ。
    あれは人・猿の逆転世界というショッキングな幕開けから始まり驚天動地のエンディング
   を向かえるのだが、はっきりとSFたり得ていた。
    本作の場合、SFというよりタイムスリップものとすら感じられない。
    なぜなら地球より800年遅れた「中世」なら、いくら民が野卑で下劣であっても「神」が厳
   然と存在したはずだからである。「神」とされるドン・ルマータはどうして「神」たり得たのか、
   さっぱり説明されない。「神」たり得るには「武力」、「知識・技術」で民との圧倒的力量の差
   が必要なはずだ。ドン・ルマータは映画「トリック 劇場版」の神001、002と変わらない神
   通力しかないではないかと言ったら言い過ぎか(笑い)。
    下劣で残酷でどうしようもない世界に紛れこんだ観客は、既知の「中世」もどきの世界で
   あるはずなのに違和感だらけで不快感を憶えつつ、自分がどこにいるのかさえわからな
   いまま、上映時間約3時間、果てしなき行軍を強いられる。
    カール・テホ・ドライヤーの「奇跡」もそうであるように「神」にまるわる物語は鈍重でかっ
   たるくていいのだが、本作の場合、最後までさしたる展開がないまま推移する様はまさし
   く果てしない行軍に例えられよう。 



   〔「神々のたそがれ」より「神の発明」への誘い〕

     本作の邦題は「神々のたそがれ」であるから映画における「神」について少しばかり考
    察しよう。
     (「黄昏」だとワーグナーやヴィスコンティーになってしまうから「たそがれ」か?)
     SFが困難と言われる昨今、伝統的なスペースオペラであるが果敢にもSF映画に挑ん
    だウォシャウスキー兄弟の心意気だけは買って劇場に駆けつけた「ジュピター」で描か
    れる「神」は1万4千歳あまりの不老不死の長寿と知識・技術によって「神」として君臨
    していた。(ウォシャオスキー兄弟の描く「神」は真性イルミナティーが批判するヤハウェ
    ≒ サタン的な「神」であった。)

     旧作でいえば、ベルイマンの「第七の封印」は「神の不在が云々」で語られるが、そろ
    そろわかったようなフリするのはやめたら如何かと思うのです。あの映画には「神の不
    在」だけではどうしても解せない重要な事柄があります。それは、なぜ死神がやってき
    たのかということです。より正確にいうなら、キリスト教徒・ユダヤ教徒にはわかっても我
    々、東洋人にはわからないはずなのです。因果律(因果応報)に縛られている我々、東
    洋人は「なぜ、死神が」と考えてしまうのだ。「なぜ、死神が」という疑問はキリスト教徒
    ユダヤ教徒、すなわち予定調和(予定説)の世界の住人にとっては愚問というしかない。
    そう「予定」されているから「死神」は出現したのだという他ないのだ。この点は「神々の
    不在」では説明できないことであって、根本的は宗教観、死生観の違いとしかいいよう
    がない。
    
     本作に当てはめると、ドン・ルマータと称する男は、地球から800年遅れた「中世」もど
    きの惑星に辿りつき、「神」となるように予定されていたからそうなった。そのように解す
    ることもできる。でもね・・・・・。「神」として振る舞うドン・ルマータは一般の民とさして変
    わるわけではなく、こ汚く、悪食で品性下劣で、糞尿まみれの村に保護色のように溶け
    込んで神々しさは微塵もない。
     雨が降りしきり、ぬかるんだ吐きだめのような村、マグナカルタ以前の世界、基本的
    人権のない、すなわち当然、奴隷がいる世界、知識人・賢者が狩られて肥だめに沈め
    られ虐殺される風土、これらがこの映画の世界。
     荒くれ者の西部劇も、そのエピゴーネンである「マッドマックス」も、仁義なきヤクザの
    修羅の世界も、すべて本作の前では清潔で礼儀正しくさえ思えてくる。

     「神々のたそがれ」というタイトルだが、たそがれる前にそもそも「神」が発明されてい
    ないのだ。「神」が発明されていないからこそ、「神」との対話から始まった「論理学」
    (数学)も存在せず、法律も未発達な「もう一つの中世」となってしまったのだ。
     「神」が発明されていないのだから、もちろん宗教はおろか倫理観も美意識すら存在
    せず、愛など贅沢品で友情(同胞愛)すら怪しい。
     何ともひどい世界に我々は約3時間もつき合わされることになる。

     倫理観や道徳観のない世界というとフェリーニの「サテリコン」が思い浮かぶが、あち 
    は代わりに快楽、美食、エロ、退廃という映画の見世物的ファクターがてんこ盛りだっ
    た。
     この映画には女性は数人しか登場せず、エロすらなくゴミため、肥だめのぬかるんだ
    小道を村人がウロウロするしかない。

     監督ゲルマンの生きたスターリン時代とかにこのロクでもない映画世界をアナロジーす
    るむきもあるが、それより私は人類はなぜ「神」を必要としたのか、そちらに思いをはせ
    るのです。
     買ったまま手つかずの中沢新一著「神の発明 カイエソバージュⅣ」が急に読みたくな
    った。

                                     (つづく)



神の発明
そういうわけで読み始めました。





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