素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

今だに高度経済成長が忘れられないか!? 新国立競技場 ! 後編



それにしてもどうしてこんなにドンブリ勘定の公共事業がまかり通るのだろうか?
やはり旗ふっている政治家らが、現在はポスト「ポストモダン」の時代だという認識がないか
らではないだろうか?正確がどうかわからんが、「ポストモダンな政治」が民主党・鳩山由紀
夫らが唱える「新しい公共」とか「共生」(友愛)とかだったとしよう。そんな甘ちょろいものダメ
だとポスト「ポストモダン」の時代、政治は「モダン」に回帰してしまった。
わかりやすく言うと、戦後復興から高度経済成長のモニュメントとしての1964年の東京オリ
ンピックの夢よ再びという具合だと考える。無理やり東北復興と戦後復興をこじつけてちゃっ
たりしてね。ちっとも東北復興してないじゃん。

    五輪 輪
     1964年 東京オリンピック の五輪。 2020年 東京オリンピックは何を見せて
     くれるのか?

ポスト「ポストモダン」の現代、どこへ行くか、ホントはまだ決まっていない。
いや、決まっているじゃないか、グローバリズムの時代だよ、と思われるかもしれないが、水野和夫氏曰くのようにグローバル経済が終焉をむかえてブロック経済の時代になるかもしれない。そんな時代、新国立競技場はウルトラモダンになってしまった。
ザハ・ハディド氏のデザインは遅れてきた流体力学を極限まで追求したようなデザインだ。

現代はグローバリズムの時代といわれる。さも新しい事態が到来したかのようだが、グローバリズムは佐伯哲思氏が曰くのようにアダム・スミスの重商主義に萌芽が見られ、帝国主義を経た、ハイパー帝国主義だもの。
「21世紀の歴史」でジャック・アタリが「超帝国」と述べている世界への過渡的段階が、巷間喧伝されるグローバリズムだ。
つまり、ウルトラモダンそのものだ。

安倍政権が戦前回帰を志向していると言われる。
いや、「大日本帝国」に回帰しようとすらしている。
「昭和」がモダンなのは言うまでもないが、「大日本帝国」も大きくとらえるとモダンだろう。
さらに大きくとらえると、日本だけでなく世界中で20世紀はモダンが進行していったのだが、英米は日本と少し事情が違うのだ。
英国の場合、ポンドが世界の基軸通貨だった時代があったし、米国のドルは今でも世界の基軸通貨だ。自国通貨を基軸通貨とまでも言わないまでも国際化させた時点で、その国の経済的近代化は達成される。
つまり、英米の場合、経済的近代化が達成された時代にモダンが進行していったといえよう。
翻って日本の場合はどうかというと、経済的近代化が達成されないまま、すなわち後進国のままモダンが進行していったのです。
ですから日本のモダンはどしても前近代的な側面が拭えない。
もちろん、現在、日本は経済的近代化を達成している。しかし、社会的に近代化を達成したかというとどうも怪しい。
社会的近代化の基盤が確立したとは言い切れない日本は経済的近代化が達成されていない時代のモダンというべき「昭和」へ、「大日本帝国」へと回帰しようとしている。安倍政権には如実にそれが現れていると思えるのです。
ですから先進国では考えられない政治家による言論弾圧発言がまかり通るのです。
新国立競技場という公共事業も、「採算もへったくれもあるもんか!造りゃいいだ!」という土建屋体質へ回帰する。
「売った、建てた、逃げた」の「昭和」の時代のハイパーバージョン、ウルトラモダンなバブル建築よ再び!ということになってしまうのだ。

以上、建築と政治の様式(モード)はパラレルであるという私見を述べてみた。
この言説が正しいか否かはともかく「未来は決まっているのだ」と考えるのではなく、ポスト「ポストモダン」の時代は今だに漂流しているのであって、「未来はこれから決めるもの」という思考へ人々を誘うことを願っています。

                                           (了)




ヨルタモリ
ヨルタモリ の一コマ。大阪の建築家
近藤さんとは誰のことかおわかり
だろう。


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