素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「 MAD MAX 」 とオーストラリア映画 後編

  



   〔MAD MAX 怒りのデスロード〕 

    本作は監督ジョージ・ミラーのセルフリメイクであります。
    セルフリメイクというと小津安二郎 「浮草物語」 ⇒ 「浮草」、市川 昆 「ビルマの竪琴」 ⇒
   「ビルマの竪琴」等思いだされるが、他人がリメイクするより成功している例が多いような
   気がする。巨匠がタイトルだけ違って自己模倣している場合、駄作が多いのだけど。
    いずれにせよセリフリメイクは巨匠にだけ許される特権です。
    さて本作はどんな具合でしょう。

    ジョージ・ミラーはハリウッドに行ってどんどん洗練されてついにペンギンのCGアニメ
   「ハッピーフィート」を撮ってしまった。そんな折「MAD AMAX」の製作を聞きつけ軽く
   サプライズでした。
    70歳を迎えても監督のぐつぐつ煮えたぎる様が画面からほとばしってきます。
    新しいものは特になく20世紀的なものがハイパーになっています。
    「MAD MAX」シリーズとの決定的違いはMAXが主人公というよりフュリオサ大隊長が
   (シャーリーズ・セロン)がヒロインで彼女の映画になっていることです。
    私、シャーリーズ・セロンは贔屓の女優でありまして来日の際、写真撮りに行きました。

     シャーリーズセロン  

    映画がつまらなくてもシャーリーズ・セロンという「保険」がついていればいいのだよ、な
   んて行きつけのバーのマスターI 氏に本作を観る前に語ったら彼も彼女のファンらしく話
   がはずみました。(もちろん、映画は大満足でしたが)
    本作の企画そのものは10年以上前でジョージ・ミラー還暦前でした。
    「還暦」というとやはり戻ってくるのですね。
    オーストラリアに滞在したことのある I 氏によると、あの棒高跳びのように反動つけて襲
   ってくるやつですが、あれはオーストラリアの現代アートを取り込んだものだそうです。
    「なるほど、ハリウッドがカンフーのワイヤーアクションパクったのとは違い、根っこがある
   ということですね。」と言いつつ私はフト思ったのです。「これは島国の日本人には作れな
   い、そもそも発想できない映画だ」と。本作を模倣することは出来ても砂漠で改造車疾走さ
   せてバトルするという発想は日本人からは出てこない。これはまさしくオーストラリアの「風
   土」が育んだ映画だ。(ロケ地はアフリカだけど)
    「この砂漠を前にどうすんのよ?」という状況はオーストラリアでは日常で、日本はもとよ
   り欧米でも多くの場合、非日常のかけ離れた世界だ。

    本作を観た直後、ケーブルTVで園 子温監督「愛のむきだし」を途中から観たのだが、
   パンチラがどうの、盗撮がどうの、壊れた家庭が云々はこの砂漠の前では「それが?」で
   お終いです。
    エンタメとしての本作の評価は他の人にお任せするとして、このオーストラリアの砂漠と
   いう「外部」を前にして思うことは、昨今のチマチマした日本映画のテーマは蜃気楼のよう
   に消えてなくなってしまうのではないかということです。   
    砂漠はその先の何か(希望)を求めては放浪してはいけないのです。
    フュリオサ大隊長が緑の地を求め疾走したが、もはやかの地はなく号泣の果てに塩の
   湖を渡りその先の何かを求めようとしたがMAXに促されて翻意して荒廃したウェイストラ
   ンドに帰還して悪の首領イモータン・ジョーを殺害するという「現実」を選択する。
    それは「Walkabout」で少女ジェニー・アガタが制服を脱ぐことなくアボリジニとのWalk 
   aboutを終わりにして「文明」≒「現実」に帰還することとパラレルだ。砂漠という「風土」が
   そうさせるのだ。
    改造車のバカっぷり、狂気と繰り広げられる騎馬部隊のような車によるバトルは欧米で
   は見られない荒々しいもので「荒野の千鳥足」の世界が根底にある。(あってもカーチェイ
   ス、カースタントくらいでしょ)アメリカにも改造車くらいあるが、本作の場合車へのフェティ
   シズムともいえるこだわりとメタモルフォーゼが横溢していて、これは当然、「The Cars
    That Eat People」にも見てとれるだろう。首領イモータン・ジョーの女たちのニンフ(妖精)
   のようないでたちは、もちろん「ピクニックatハンギンロック」の女学生に通じる。
    あちらは失踪、こちらは逃亡だけど。
    これらは偶然ではなくオーストラリアの「風土」が育んだものなのです。
    ジョージ・ミラーがいくらハリウッドに調教され、世界がグローバル化しようとも「風土」と
   「映画」は切っても切れないものであると思い知らされました。

    それにしてもこの映画は久々にPCもスマホも一切出てこないローテクの世界です。
    安倍政権は成長戦略のお手本としてシンガポールを目指しているようだが、あの国こそ
   NWOの世界。アメリカを超える超格差社会で言論の自由もないとか。そのうちシンガポ
   ールから一般人のマイクロチップ埋め込み第一号が出てきたりして。
    「MAD MAX」の世界とNWOシンガポール、どちらが地獄でどちらがマシなのか?
     
    そのどちらでもない、戦後日本の延長の「未来」であって欲しいものです。

    そうそう忘れた、本作は☆☆☆☆ であります。

                                               (了)


     
      よく見ると 「The Cars That Eat People」のポスターような針ねずみ車
      が出てくるね






    
スポンサーサイト

映画 | コメント:0 |
<<オリンピックロゴの真意!?(安保法制と東京五輪) | ホーム | 「 MAD MAX 」 と オーストラリア映画 中編>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |