素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

暴論!「 文化大革命 」 を世界記憶遺産に! VOL.4(その1)

    



    西欧人は日本人と中国人が並んでもおそらく区別ができまい。
    日本人だって言葉を喋らなかったら、日本人と中国人を見分けられないだろう。
    (服装で見分けられたのは昔のことで、そこそこ経済力をつけてきた中国人は外見上は
     見分けがつなかいと思う。)
    似たような顔をしているのにその心性、行動様式において日本人と類似のものを彼らに
   期待しても無理であり唖然とすることすらある。

     街中はもとより高級ホテル、マンションのロビーで平気で唾を吐く、京都へ行けば日本
    庭園の池の錦鯉を子供が素手で捕まえて「父さん、うまそうな鯉だよ」と言ってのけるの
    は朝飯前で、赤ん坊の紙おもつをそこいらに捨てる、都内タワーマンション購入するくら
    い経済力のある中国人でもベランダで立ち小便する等々。

     我々、日本人からすれば呆れかえる行いを数えると枚挙のいとまがない。
     なぜ、彼ら中国人はかくも恥知らずで傍若無人なのか?国民性の違いだ、だから中国
    人は嫌いだ!と片づけてしまえば簡単だ。
     もちろん、国民性の違いは無視できないのだが、国民性に由来する「文化」の違いと言
    った方が正確だろう。
     同じ中国人でも大陸の中国人と台湾人では大幅に違うことは普く知られたことだ。
     日本統治下の教育が今でも根強く残っているからだとか言われる。
     確かにそうだろうがそればかりではなく、(今や単なる1党独裁だが)社会主義国と資
    本主義国の違いだろ?いや、まだフォーカスがぼけている。
     いきなり結論めいたことを言うと毛 沢東時代の「文化大革命」の爪跡は無視できない
    と考える。
     同じような顔していても日本人では考えられない行動様式の中国人は、日本人が当た
    り前のように備えているものが欠落しているのだ。いわば日本人とに比較文化論的スタ
    ンスで「文化大革命」の残した爪跡を考察してみよう。 

     帰化した元中国人石 平氏はあっさり言う。
     
      「中国の 『 もっとも良い人間 』 は日本で言う 『 ごく普通のやさしい人 』 」

      「『 礼儀 』 において日本人の右に出る者はいない」

     前段の「やさしい」にピタリと符合する中国語は存在しないという。
     中国語の「善良」、「慈悲」、「懇切」、「温情」、「温和」等10個以上の形容詞を使っても
    日本語の「やさしい」は表現できないと説く。
     中国語の10個の形容詞の淵源を遡れば孔子の説く「仁」と「恕(じょ)」に辿りつくよう
    だ。  

      「仁」とはすなわち人を愛すること

      「恕」とは他人を思いやること

     後段の「礼儀」については説明の必要はあるまい。
     どちらも、結局、孔子「論語」に起源があるということだ。
     政治家、功なり名を遂げた実業家の中には孔子「論語」に詳しい日本人が少なくない。
     私は世間一般の日本人同様、とんと不案内だが。

     中国人のみならずおそらく世界中の人が日本人に感じるだろう「やさしい」とは日本人
    固有のものもあるだろうがどうやら論語に起源があるようだ。
     我々日本人は「論語?知らないよ」と思っていてもそのエートスは血となり肉となり我々
    の体の中で息づいているようだ。
     著書「私はなぜ 『 中国 』 を捨てたのか」の中で石 平氏は「日本で出会った論語と儒
    教の心」と一章を設けて説明している。

      日本人が、「論語」をよく読むようになったのは江戸時代からであるようだが、
      私は留学を終えて就職してから、この江戸時代の日本儒学にもふれ合うこ
      とができた。
    
           (中略)

      近江聖人の中江藤樹、石門心学の創設者の石田梅岩、大阪の懐徳堂に集
      まって儒学を研鑽する商人たち、そして、京都の丸太町に堀川を挟んで同時
      に塾を開いた、かの伊藤仁斎と山崎闇斎、江戸儒学の錚々たる碩学たちはこ
      の近畿に雲集していたのである。

                 ~ 石 平 著 「私はなぜ『中国』を捨てたのか」 ~ 


     論語は支配階級の学問と言われる。
     日本では支配階級=武士だけのものではなかったことが江戸時代の日本儒学から
    伺える。
     江戸時代ばかりでなく近・現代でも中国より日本の方が論語研究が盛んなようだ。

      読書の範囲は除々に日本の儒学研究・思想史研究の大家たちの「論語」研究
      へと広がっていった。
      諸橋轍次の「論語三十講」、吉川幸次郎の「『論語』のために」、岡田武彦の
      「現代に生きる論語」、武者小路実篤の「論語私感」、安岡正篤の「論語の活学」
      など、大学の図書館にある錚々たる「論語論義」のほどんどを読みあさった。
      それはまた、驚嘆と感激の連続であった。
      日本の研究者たちは、これほどの深さで論語を理解していたのか。

                                 ~ 引用 同上 ~


    日本人の我々より日本の「論語」研究に詳しい。
    よくあることだが、外国人に日本のことを教えてもらう一例とこれもいえよう。

                                       (つづく)








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