素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 前編

    


    今年も押し迫り、1年を振りかえるという恒例行事の時期となりました。
    大村さん梶田さんノーベル賞、ラグビーW杯日本初の3勝、イスラム国による日本人殺
   害、マイナンバー、安保法案成立、TPP大筋合意(と日本だけ言っている)、東京五輪エ
   ンブレム撤回、2度にわたるパリ同時テロ、押し寄せるシリア難民、COP21採決等々。
    いろいろなことがあったが、それらは他の人に委ねるとして私はもう少し遠くから望遠鏡
   で「現在」を眺めてみたい。望遠鏡といっても遥か彼方からではなく、この20~30年、
   オンリー・イエスタデーから2015年現在を眺めてみよう。
    あの頃から世の中、随分と変わったことは間違いないのだが、一面においてあの頃の
   事態がより深化しただけとも受けとめられる。
    その一つとして「遊びの堕落」が挙げられるだろう。
    「遊び」を哲学的に論じる時、その範囲は我々の想像よりもはるかに広い。
    「宗教」、「科学」さえその範疇に入るそうだが、ここは一つわかりやすくいこう。
    
    スポーツ、ギャンブル、演劇、絵画、音楽等の芸術、これら「遊び」に関しては規則、若し
   くは理(ことわり)が存在する。スポーツ、ギャンブルに規則があることはわかりやすいが、
   もっと自由であるはずの芸術は別物と思いがちだ。でも、定型というか基本は存在する。
    理(ことわり)が一番、わかりやすいのは音楽で和声など他の芸術より厳然と決まって
   いる。だからタマに集まって演奏するオヤジバンドでもこの理(ことわり)、すなわち楽理な
   くして音楽は成立しない。
    つまり演奏レベルがどうあろうと楽理を無視しては「遊び」たり得ないわけであり、「そん
   なのいいよ、アドリブだよ」というような事態を捉えて「遊びの堕落」と言ってしまいたいと
   ころだが、それではあまりに矮小化されてしまうことから、ここは一つ「遊び」の哲学者、
   ヨハン・ホイジンガが唱える「ホモ・ルーデンス」(遊ぶものとしての人間)という視点から
   「遊び」を定義してみたい。「遊び」は次のような形式的特徴を持つという。

     ① 自由な行動
 
     ② 日常の生ではない

     ③ 定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる

     ④ リズムとハーモニーで充たされている

     ⑤ 固有の規則がある

     ⑥ 秘儀や仮装のような秘密を持っている

     
    遊びなんだから「自由だよ」というのは実に狭い見方といえる。
    自由であるが同時に規則が存在するということだ。
    ① 「自由な行動」を除けば、茶道などは典型的な「遊び」といえよう。
    茶道は作法でがんじがらめのようで本当は基本さえ押さえていれば、結構、自由なん
   だそうだ。正座しなくても椅子に腰かけたままでもいいそうだ。これら自由な茶道は坂本
   龍一氏らが実戦している。
    
    ヨハン・ホイジンガは20世紀初頭に既に「遊びの堕落」が始まったと説く。
    そうだとしたら、オンリー・イエスターデーの80年代、日本でポストモダンが華やかりし
   頃、「遊び」はどうだったのだろう。 

     いずれにせよ、現代の「あそび」が、日本のものをはじめとして、ホイジンガの
     示した諸特徴から大きく逸脱していることは論を俟たない。軽薄短小の今様
     の「あそび」は、商業主義によって方向づけられているために自由ではなく、
     日常生活のなかにずかずかと踏み込んでくるために非日常の領域になく、
     社会全域に夜昼なく広がっているために時空の限界を失い、機械の発達の
     ためにリズムとハーモニーが生き生きとした活力を持たず、イノヴェーション
     が絶え間ないため規則が動揺させられ、そしてそれらの総合的結果として、
     競技も演劇も祭祀もかつてのような真剣な「あそび」ではなくなっている。
     
         ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~


    この頃、文化系の学生の間では広告業界は就職先として花形の一つであった。
    気まぐれな消費者を捉えて「大衆」ではなく「分衆」、「小衆」と呼称し、人々の多様化、
   差異化した好みを軽薄短小で面白主義の包装紙に包んで商品化することが称揚された。
    (今考えると、キャー、恥ずかしい!の世界だ) 
    そんな広告業界でヨハン・ホイジンガはもてはやされるようになった。
    彼らがホイジンガの「遊びの精神」引き合いに出すのは悪い冗談ではないかと西部氏
   は説く。なぜなら20世紀初頭に芸術は「機械化、広告、センセーション」の影響を受けつ
   つ「直接に市場を目的とする」行為が目立ちはじめ、「遊びの堕落」が始まったとホイジン
   ガが指摘しているからだ。    
    広告業界に限らず、昔の表現だが、「ギョーカイ人」と呼ばれる人々は「遊び」の世界で
   仕事している。彼らは一応にプロを自認するが、同時に「日常の生でない」遊びを日常と
   していて、「定められた時間、空間の限定内で行われて、そのなかで終わる」遊びが終わ
   りのない遊びとなってしまっている。つまり、常に「遊びの堕落」と背中合わせに立ってい  
   るともいえよう。
    
    そんな「ギョーカイ人」がたまに集まって音楽を演奏しようとすると信じられないことが起
   こる。演奏曲の譜面を持ってこないどころか、練習してない、いや、聞いてすらないのに
   現場に望むという事態が起こったりする。
    これは「遊びの堕落」の堕落、つまり、「遊びの堕落」の2乗、底が抜けちゃった事態だ。
    この「ギョーカイ人」でも真摯に音楽に取り組んでいる人はもちろん多数存在するが、こ
   のような事態はホイジンガの「遊びの精神」を曲解している、若しくはそもそも知らない「ギ
   ョーカイ人」なら当然の帰結なのかもしれない。

    何とも些細なことを延々と述べているのか!
    いつまで経っても「現在」とつながらないじゃないか!

    まあ~、そう焦らずに。

                                      (つづく)






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