素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

望遠鏡で眺める現在、そして未来へ 中編

  

  

    経済環境が規制緩和とグローバリズムによって厳しさを増す昨今、その反射か、
   「遊び」がゆるゆる、ぐだぐだではないかという思いから「遊びの堕落」について述べて
   きた。「遊び」と「現在」がどう結びつくかさらに検討しよう。
    ヨハン・ホイジンガは西欧における「遊びの精神」の広く深い堕落がナチスを生んだと
   唱える。
    これは思想の八艘飛びであり、正確には「遊びの堕落」 ⇒ 「大衆」の増大⇒ ナチス
   の台頭ということになろう。
    ご存知とは思うが、ここで「大衆」とは世間一般の人々のことを意味するのではない。

     つまり、どれほど大きな所得を有していようとも、またいかに高い地位に
     就いていようとも、「あそび」のピュエリリズム(注)に与するような精神の
     持主であるのなら、その人はマスマンつまり大衆人だということである。
     こうした大衆人たちによって指導され、そして追随される「極度に無責任
     な大衆行動の危険」が「異常なまでに増大している」。それに抗しえない
     と知りつつも、抗してみせるのが真の「あそび」だとみなして、ホイジンガ
     は 『 朝の影のなかに 』 を執筆したのだと思われる。
    
       ~ 西部 邁 著 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 ~  
 

       (注) 判断能力の発達段階からみて、それ相応以下にふるまう社会、
           子供を大人にひきあげようとせず、逆に子供の行動にあわせて
           ふるまう社会の精神的態度、いわば文化的小児病のこと。              


    安倍政権は発足時からファシスト政権とも言われる。
    80年代よりも「現在」の方が大衆化が進んでいる。
    政府がメディアが官僚が全体主義(ファシズム)を推進しているようで実は他ならぬ
   「大衆」がファシズムの下地作りをじわじわとしているのであります。
    素人バンドの瑣末な出来事に見てとれる「遊び」の底抜けのようなだらしなさは「大
   衆化」が高度に進展してしまった一例といえるだろうと言ったら言い過ぎか? 
    大衆化 ⇒ ファシズムの台頭は「遊びの堕落」だけでは語れない。

    ヨハン・ホイジンガが広告業界を席巻していた頃、ある映画が公開された。
    森田芳光監督の「家族ゲーム」だ。
    この映画についての長部日出雄氏の批評は、今一度注目に値する。

     作者がそう意識していたかどうかは別として、「今日では、すべてのシス
     テムは不確実さのなかで動揺しており、現実なるものはコードとシミュレ
     ーションというハイパー現実に吸収されてしまう。今やシミュレーション原
     則が、古い現実原則に代わって我々を支配する、合理性は消え去り、
     モデルが我々を産み出す。今やイデオロギーなるものではなく、シミュラ
     ークルしかない」(今村仁司・塚原史訳「象徴交換と死」)とジャン・ボード
     リヤールが言う記号消費社会の構造を、これほど鮮明に、具体的に描い
     た映画をほくは初めて見た。

     この映画が描いているのは、モノをそれ自体としてより記号として消費す
     る今日のハイパー現実―― すなわち現実の複製―― であり、シミュラー
     クル(模像)としての家庭であり、作者はそのなかに、いささか時代錯誤の
     異人を侵入させることによって、なにが起こり、どういう結果になるか、とい
     うシミュレーション(模擬実験)を試みたのだ。

          (中略)

     受験戦争も、社会的な差異表示記号を消費する円環の体系の一環に過ぎ
     ない。現代のシミュレーションを管理しているコードの転換を図らなければ、
     そのあとにくるのはファシズムであろう、と。

                     ~ イメージフォーラム 1984年3月号 ~


   
    前段のボードリヤールの言説は記号論が流行した80年代を象徴するもので21世
   紀現在からみるとやや疑問符がつく。人はどんな状況でもたいがいの状況は順応す
   るもので例えボードリヤール曰くの通りでも敢えて警鐘を鳴らすほどのことではない
   のではないかとも思えてくる。
    最終パラグラフに述べられている、記号化されようとも何事も消費の対象でしかな
   いという一節は「消費」がますます拡大する現在、凄く重要だ。「消費の対象でしか
   ない」という態度は「消費」以外については無関心、無責任を決め込んでもいいと
   換言できる。このスタンスも「大衆化」を助長するものだろう。
    RPGは普通に日常生活に馴染んでいるが、これは入口に過ぎない。
    行き着く先はビッグデータを駆使した統計学に基づくシミュレーションだと考える。
    これが不確実な需要を探るうえで最も正確かつ効率がいいのだろう。
    「現代のシミュレーションを管理しているコードの転換」―― これら統計学の外
   にも重要な事柄が存在することを認識することだ。
    それが出来ないならビッグデータならぬビッグブラザーに支配された世界、すな  
   わち徹底監視・管理の全体主義的世界となろう。
    そんな時代、人々はどんな心性を示すのだろうか?


    「家族ゲーム」と同年、ある忘れ難いTVドラマが放送された。
    山田太一作「早春スケッチブック」だ。
    視聴率ひと桁でいつ打ち切られてもおかしくない状況だったが最終回まで放送さ
   れた。先日、ケーブルTVで放送されていたのでつい観てしまった。
    結論から言うと、このドラマは今こそ再見されるべきドラマだ。
    描かれるのは河原崎長一郎演じる信用金庫勤務のサラリーマンとその妻役の岩
   下志麻の小市民的世界を山崎 務演じる闖入者たる元カメラマンがかき乱していく
   様だ。消極的なニヒリストたる元カメラマンは小市民の生活を罵倒、軽蔑しつつ同じ
   く小市民たる視聴者に唾を吐く。低視聴率なのは当然か。
    小市民は登場するものの、前述の「大衆」(B層)は出てこないが、この消極的ニ
   ヒリストの存在は今こそその存在意義が鮮明となるだろう。
    「遊び」が堕落し、シミュラークルの世界から抜け出せない現代の「大衆」(B層)
   に元カメラマン(山崎 務)の言葉は届くだろうか?それとも彼ら「大衆」はその精神
   がメタボ過ぎて言葉は届かないのだろうか?

     「気の小っちゃい、善良でがんじがらめの正直者め!」

     「人でも物でも、本当は見ていない」

     「お前らは、骨の髄まで、ありきたりだ」

     「人間は、給料の高を気にしたり、電車がすいていて喜んだりするだけの
      存在じゃない。親父に聞いてみろ!心の底までひっさらうような物凄い
      感動したことがあるかってな!」

     「自分をみがくんだ。世界に向かって、俺を重んじよ、といえるような男に
      なるんだ」
    
     「ああいう男が人を愛するなんてことができるわけがねぇ。
      自分のことばかりよ。心ン中のぞいたら、安っぽくて、簡単で、カラカラ
      音がしてるだろうぜ」

            ~ 山田太一 作 「早春スケッチブック」 シナリオ ~


                                   
                                        (つづく)
  

     
  



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