素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

夏の戦争映画 VOL.3 「連合艦隊」 「連合艦隊司令長官 山本五十六」 前編

  



   〔連合艦隊〕

     この映画は公開当時(1981年)、結構、話題になった。
     興業収入も公開当時邦画NO1であってリアルタイムで観た人も多いだろう。
     私は当時、どうも触手が伸びず、今頃始めて観た。
     谷村新司さんは嫌いではなく、出来ることならいつかお話してみたいとすら思っている
    のだが、彼が情感たっぷりで歌唱する「群青」がラストに流れるのを観ると当時観なかっ
    たのは若気の至りではなかったと再確認した次第だ。

     この頃からか、偉人の戦争ものではなく、民間人の視点の戦争映画が幅を利かすよう
    になり未見だし今後も観るつもりのない「永遠の0」もこの延長線場上にあるのだろう。

     どうして日本人はかくも「お涙頂戴」が好きなのだろうか?
     そんなこと言っている私が余程の変わりものなのかいな。
     ヒロイズム、自己犠牲、引き裂かれた家族、恋人たち、これらが戦争映画に散りばめら
    れるのは万国共通とも思えるが、日本の場合、先の大戦が負け戦であったが故か、特
    にセンチメンタリズムがお好きなようだ。
     この映画を子供の頃観て感動してから20数~30数年経ても「やはり最高の戦争映画
    です」と臆することもなく言う人達が今日の右派、ネトウヨの中心的世代だと考える。
     子供の頃、感動するのはいいとしても数10年もすれば思考も歴史観も変わるものだ
    が、どうもそうではないようだ。
     この映画をバイブルのように思っている人達がやがて「知覧だ、靖国だ」と言いだすの
    は当然だ。それでいいではないか、どこが悪い! 

     三宅洋平曰くのように家族から戦死者が出た人が靖国神社へ行って英霊の御魂に
    尊崇の念を捧げるのは至極当然だ。これに異論を唱える気はないが、フィクションから
    入って戦没者を家族に持つ人と同じ心性になってしまうのはどうも怪しい。
     なぜならそのフィクションが戦争を正確に描ききっているという保障はどこにもないし、
    冷静に読者・観客がその作品のメッセージを読み取れるか怪しいからだ。 
     三宅氏の言説の対偶は「家族に戦没者のいない人は靖国マンセー!とならなくても
    いい」ということにならないか。
     私の家族に戦没者はいない。
     この際だから言ってしまうが、祖父はシベリア抑留者だ。
     約10%、約6万人がかの地にて寒さと栄養失調で野たれ死んだ。
     3年くらい強制労働させられたようだが、何度か戦争のことを聞いたがあまり語りたくな
    いようだった。零下20度の厳寒と飢え(栄養失調)と恐怖によるストレスによるものか、
    帰国するとすぐ歯がすべて抜け落ち、若くして総入れ歯になってしまった。
     地獄を見てきた人は地獄について語りたくないのだ。
     戦争なんて出来れば忘れたい、あんな理不尽はもう御免だ―― それが本音だった
    ろう。おそらく靖国神社にも行っていないのではないか。
     そんな祖父の孫として生まれたのが私の宿命だ。
     右派が何と言おうと私は私の宿命のもとに「戦争」を語る。

     さて、脱線したが、民間人の視点で戦争を描くと一見、わかりやすいようで逆に見落と
    してしまうのではないか?松林宗恵監督が描きたかったであろう戦争の理不尽、悲劇は
    この映画を諸手あげて賞賛する人ほど全く伝わっていないようだ。
     この映画で山本五十六は主役ではなく、真珠湾もガダルカナルもダイジェスト程度にし
    か描かれていない。軍令部と連合艦隊司令部は山本長官存命中も対立していたが、彼
    の死後いよいよ統率がとれなくなったきたようにこの映画では映る。
     本作はレイテ沖海戦のうちエンガノ沖海戦を始めて描いた映画として知られる。
     既に米軍の潜水艦によって兵站がままならなくなっていた日本軍はフィリピンこそが南
    方との補給の生命線だった。ミッドウェイ、マリアナ沖海戦にて空母を大幅に喪失した連
    合艦隊は正攻法では米国海軍の空母機動部隊に到底太刀打ちできない。
     そこで小沢艦隊を囮空母部隊として米軍ハルゼー機動部隊を引きつけている間に、栗
    田艦隊がレイテ湾を突入し敵上陸地点を攻撃するという奇策を講じた。
     小沢艦隊は首尾よくハルゼー機動部隊を吊りあげることに成功するのだが、この結果
    は栗田艦隊に届かなかった。通信機器が破壊・故障したから栗田艦隊に届かなかった
    のか、果てまた別の理由があるのか?この映画では「今もって謎である」というナレー
    ションであっさり片づけている。栗田艦隊はレイテ湾突入の機会を逸し謎の反転北上す
    るなど迷走を続けその後敵艦の攻撃をなんとかかわしながらブルネイに逃げ帰るあり
    様だ。
     このエンガノ沖海戦に関して事実誤認があると言われる、それらを追っていると迷宮
    の森に迷い込む。そもそも「事実誤認」の「事実」さえ本当なのか疑わしい限りだ。
     瑣末な事実誤認よりもっと重要なことがあるでしょう。
     「軍令部と連合艦隊司令部の対立といいエンガノ沖海戦といい連合艦隊とか言って
    も少しも連合していないじゃん」―― これがこの映画から素直に読みとれることだ。
     以前も述べたが、イギリス軍もロシア軍も日本軍は下士官以下は世界一だが、上に
    上がるにつれてダメになると指摘した。この映画「連合艦隊」から読み取れることとぴ
    たりと符合するではないか。
     松林監督は小沢治三郎中将役に丹波哲郎、栗田健男中将役に安倍 徹をキャス
    ティングしている。丹波さんと言えば「Gメン75」他正義の味方、悪役やっても腹の
    据わった男、一方、安倍 徹といえば卑劣なヤクザの親分とだいたい相場が決まって
    いる。監督のこの配役に海軍経験もある松林監督の連合艦隊幹部への批判が込め
    られている。
     平たく言えば「下っ端が懸命に闘っているのに上層部は何をやっているんだ」という
    怒りでさえある。誰が観ても素直に見れば本作はそう読めるはずだ。
     その点をすっ飛ばして見ないふりして「日本軍はよく闘いました、感動しました」って
    おかしくないか?残念ながら日本にはそういうおかしな人の方が多いようだ。
     
     メロドラマに引きずられた本作は戦争映画としてはダメな部類に属すると思うが、数
    少ない美点は小沢艦隊と栗田艦隊がなぜ通信不通だったのか「今もって謎である」と
    ナレーション入れて問題提起したことだ。
     VOL.1で指摘したように謎のままでいいから「真実」の扉の取手くらい残してもらは
    ないと困るのだ。

     右派の戦争映画だろうといわゆる反戦映画だろうと、映画である限りアクション、ス
    ペクタルはどうしたって描かざるを得ず、それがいかにリアルで魅力的であるとかが
    「戦争映画」の価値審級であることから逃れれないのだ。
     日本の場合、先の大戦は負け戦だからこれら戦争映画のカタルシスに浸れば浸る
    ほど、何故、負けたのかより勇敢に闘った日本兵とか優れた兵器とかに観客の視点
    はシフトする。

     「兵器」はやがて「作戦」となって行くだろう。
     
     「兵器」と「作戦」、「戦争」ってそれだけか?
 
     これについては次回です。

                                      (つづく)


 


スポンサーサイト

映画 | コメント:0 |
<<夏の戦争映画 VOL.3 「連合艦隊」 「連合艦隊司令長官 山本五十六」 中編 | ホーム | 朝生 「 象徴天皇制と “ 生前退位 ” 」 備忘録断章>>

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

| ホーム |