素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

夏の戦争映画 VOL.5 「シン・ゴジラ」 その1

     



     これは戦争映画ではないだろうと思われる方も多いでしょうが、純然たる怪獣映画に
    はどうも思えない。
     「シン・ゴジラ」は初めて作られた現時点における極めてリアルな専守防衛(戦争)映
    画であり、政治的側面に力点置いたパニック映画であり、そして怪獣映画であります。

                                   以下、軽くネタバレ含みます。


   〔庵野秀明は根性がある〕 

     
     誰がどう見ても本作は初代ゴジラ(「ゴジラ」1954年)を意識したものであります。
     初代ゴジラに迫らんとすればとても重い十字架を背負うことになります。
     誰も初代ゴジラを超えられないからです。これは庵野監督(注)も認めている。
     初代ゴジラの頃なくて今あるもの、優位なものとは何であろうか?
     特撮、SFX、それは「ミレニアムゴジラ」シリーズでも可能であったはずだ。初代
    ゴジラはもとよりミレニアムゴジラの頃でも無かったもの、若しくは希薄だったものは
    何なのだろか?それは「情報」であります。ミレニアムの頃と2010年くらいを比較す
    るとリアル、ネットを合わせたその情報量は、どこを起点とするかで幅があるが約40
    0~500倍になったと言われます。
     ソーシャルメディアやビッグデータが出てきて飛躍的に情報量は増えた。
     約400~500倍の情報量をそのまま享受している人はいないが、2~3倍になった
    人、なかには5倍以上になったという人も存在するだろう。
      (注)庵野氏は「総監督」ということになっているが、実質「監督」していると思われ
         るから「監督」と呼称する。



             ゴジラ 1



     ゴダール「ソシアリスム」(2010年)で繰り広げられる、人間の知覚と認識力の容量
    を遥かに超えた映像と音のソニマージュの洪水を前にして「ゴダールは何と意地悪な
    人なのだろう」と思ったりする(苦笑い)。公開からしばらくしてわかったのだが、我々が
    普段シャットアウトしている部分が多いだけで全方位に情報の扉を開ければ、「ソシア
    リスム」にかなり近い状態の中で我々は既に暮らしているのかもしれない。

     もっとも庵野監督は正面きって「情報」を意識していたわけではないだろう。
     彼が本作で目指したのはゴジラのような巨大生物が上陸した場合、政府、官僚、自
    衛隊がどのように対応するかを徹底的に調査して可能な限りリアルに描くことだった。
     これは村上 龍が「半島を出よ」で試みていることに通じる。北朝鮮コマンドーとゴジラ
    の違いはあるけれど。徹底調査したことが仇となったか、北朝鮮コマンドーにどうやって
    海上自衛隊を突破させるかたいそう苦労したそうだ。
     庵野監督がどうやってリアルなゴジラ上陸対応策を表現したかパンプを参考にみて
    みよう。

      【自衛隊】
       ① 自衛隊が部隊を現場に派遣してゴジラを迎え撃つとしたら、その作戦は
         理にかなっているのかどうか、どういう装備をどこに配置して、どういう
         攻撃をするのかの裏づけ

       ② 中央指揮所や、前線にあるタバ戦闘団指揮所などの、指揮所関係の
         機能・内装のリサーチ

       ③ 無線のやりとりについてその専門用語まで含めてのやりとりを調査・原
         稿作成すること
        
       一つ目の作戦面については庵野脚本の緻密さに防衛省が驚いた。
       
       装備も「この装備のバックファイヤーは1km」とか「MLRSは射程距離30km
       だが、弾丸のセッティング変えれば70kmになる」等調査した。
       これらは例えば射程距離70kmなら「御殿場から丸子橋まで届く」と言う風に
       撮影に反映された。

      【政 界】
       最初、映画のようなことが起こったらどういう組織が立ち上がるのかを調査。
       「3.11」の時の膨大な資料を読み返すことでほぼ把握できる。
       取材した省庁は、国土交通省、環境省、原子力規制庁、内閣官房、首相
       官邸、東京消防庁、警視庁、神奈川県警、木更津消防等々。

       ゴジラが出現した場合、どういう法律を緊急に整備しなければならないか
       調査した。
       私有財産制度の観点から住宅を壊して陣地を作ってはならないとか、
       部隊の移動や陣地の構築次第では河川法、道理交通法の整備が必要。
       殉職者が多数出た場合、火葬の段取り、埋葬の場所の変更ができるか
       等々。
       これらは有事法制の論文を読みこんで整理した。

                        ~ 「シン・ゴジラ」パンフより抜粋 ~


    
     ここまで調査したゴジラ映画は過去存在しない。
     やや意地悪な見方をすればこの時点では不明だったかもしれないが、日本版NSCは
    どうなるのか、その点が抜けているような気がする。でも、結局、政府は役にたたず、官
    僚の変わり者、落ちこぼれ、異端の学者たちがゴジラ退治を成し遂げてしまうのだから
    日本版NSCが描かれようと描かれまいとさしたる問題ではない。
     オタクたちがゴジラ退治してしまうのはファンタジーだという頓珍漢な批評があるが、前
    例のない事態に対応できるのはこうした人達でしかないと結論づける方が妥当だろう。
     オタク、犯罪者すれすれの危ないやつ、暴走族が北朝鮮コマンドーをやっつける「半島
    を出よ」を想起させる。

     「政界」の資料にあったように本作は「3.11」があったからこそ可能となったと思う。
     あまりにベタなので語られないが、ゴジラが上陸して津波のように川の水が逆流して
    街を破壊する様は今までのゴジラ映画にはなかったし、どう考えたって「3.11」及び福
    島原発事故があったからこそ「シン・ゴジラ」が生まれた。
     「3.11」で(ア)菅政権の無能さ加減が露呈したが、本作の政府も、結局、役立たず
    であった。「3.11」と「シン・ゴジラ」が違うところは、政府は機能不全に陥り、若き内閣
    官房副長官(長谷川博己)とオタクのような官僚、学者たちがゴジラをやっつけてしまう
    ことだ。つまり、本作は「3.11」の逆コースだからこそカタルシスを生むのだ。
     そのためには「3.11」の資料を元に徹底的にリアルに危機管理及び対策を講じる
    必要があるのだ。庵野監督はそこまで意識的ではなかったかもしれないが、ゴジラが
    上陸してくるような想像を超える危機に対する近時の事例は「3.11」ということになっ
    てしまうのだろう。


    ゴジラ 2

     
     村上 龍というと庵野監督は「ラブ&ポップ」を原作とした実写映画をものしている。
    あまり感心しなかったが、ラスト、部屋の中の鉄道模型からドリーバックして屋外へ
    出て渋谷川をルーズソックスがびしゃびしゃになるのもおかまいなしで仲間由紀恵と
    他3名が横一列で歩いていく様を延々と移動撮影の長回しで描いている。
     このシークエンスを観て私は「この人、根性あるね」と思ったものでした。
     普通、あのようなエンドタイトルにかかるシーンはドリーバックしながらもインサート
    カットを入れたりしてしまうものだが、ひたすらドリーバックはなかなか出来ることでは
    ない。もちろん、相米慎二「お引越し」(1993年)のラスト、田畑智子がまっすぐ正
    面みて歩いてくるあのシーンにインスパイヤーされたものだが、こういうことは根性が
    ないと簡単には出来ないものだ。
     移動撮影に関してはこんなことが言われている。

      
       映画は普通に撮ると1秒間に24コマに分断される。
      人間の眼には、そのうち4コマまでは見たことを意識できる。それ以下では
      人間の知覚能力を超えてしまい潜在的にしか意識できない。
      それでは、4コマ以下のショットだけモンタージュして作品にしたらどうなる
      のか。
      光や色は網膜への生理的刺激と化し、イメージが目にとまっても部分的、
      間歇的なものでしかなくなる。
      だが、虚(巨)大な例外が一つ残っている。それは一瞬たりともとぎらすこ
      となくカメラを移動させることだ。どんな滑らかな移動も、移動である限り、
      24のコマをモンタージュにせざるを得ないという映画の本質的なパラドック
      ス―― フィルムをバラさないモンタージュ、フィルム・セメントを一滴たりとも
      使わないモンタージュ・・・・・モンタージュの極北とモンタージュ拒否の極北
      が溶け合う場、そこに映画は立つ。

             ~ 美術手帖 1981年12月号 「映画楽入門」 ~  
    


   
     本作では長回しではなく、断片的専門用語・軍事用語、難解な霞が関文学が間断
    なくマシンガンのような飛び出してくる。
     庵野監督は「情報」の移動撮影の長回しをしているが如くだ。
     これらはもっと整理されてパニック映画の部分に昨今の戦争映画が民間人の悲劇
    を描くように民間人一家のドラマをサスペンスフルに盛り込んだ方がわかりやすい。
     そんなことは庵野監督は先刻承知だ。
     それは今までのゴジラ映画で散々やってきたことであって、そんなことより彼は怪獣
    が襲来するような究極の危機に際して政府、官僚、自衛隊、学者がどう対応するか、
    そして米国との従属関係を「情報」として矢継ぎ早に提示することによって現在の「日
    本のリアル」を描きたかったのだろう。

     長回しは日常、生理の自然を表出させようとして逆に映画的不自然に陥るとよく指
    摘される。本作も同様でリアルを追求すればするほど映画的には不自然なのかもし
    れない。それでもやり抜くには作家としての根性と覚悟が必要なのです。
     庵野監督はその根性のある人だ。

    
     こういう人は今日の日本映画界には少ない。

                                         (つづく)
    
    








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