素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

夏の戦争映画 VOL.5 「シン・ゴジラ」 その2

    



    「シン・ゴジラ」が「ゴジラ」(1954年)の21世紀バージョン、現代版であることは論を俟
   たないだろう。そこで初代ゴジラについて少しばかり考察していきたい。
    そうは言うものの、「今観ても初代ゴジラは凄い、色褪せない」とか言っていても埒が明
   かないことからゴジラ誕生前から「ゴジラ」(1954年)の立ち位置を定めたい。
    さらに「ゴジラ」(1954年)以降、数々のゴジラ映画が存在する中で敢えて初代ゴジラ
   に挑んだ庵野監督の苦闘から「シン・ゴジラ」論を展開する。


  〔現代ゴジラ映画としての「シン・ゴジラ」〕 

   【東京(江戸)という磁場に引きつけられる破壊と再生の物語】

    「シン・ゴジラ」のパンフで竹野内豊さんが「ゴジラが初めて放射線を吐くところでは、日
   本人としていろんなことを感じましたね。その後に都市が破壊されていくことへの想いと
   いうのは敗戦国にしか描けない何かがあるのではないでしょうか。」と語っていた。
    私はそんなことは思いもしなかったのでさすが俳優さんは感受性が豊かだと思ったもの
   でした。
    初代ゴジラ公開時(1954年)と言えば、戦後まだ9年、戦争の傷跡がまだ癒えない時
   代にフィクションとはいえゴジラに東京が破壊される様を観客は普通に観れたのだろか?
    「シン・ゴジラ」でも「3.11」を思わせるところがあって、東北の人、特に福島の人々は
   あの災厄がフラッシュしてしまうのではないだろうか?
    初代ゴジラ公開時には、戦争(東京空襲)を思い出させるからイヤだという人は少なかっ
   たようで、今より左翼勢力が強かったせいか、ゴジラが国会議事堂を破壊するシーンで
   は、「いいぞ!ゴジラ!」と言わんばかりに拍手が湧きあがってそうだ。

 


    冷静に考えると東京(江戸)ほど破壊と再生を繰り返している大都市は世界でも珍しい。
    江戸時代の火事は小さいものまで含めると1798回、死者数百人から数千、1万人、
   10万人規模の大火事だけでも49回も起こっている。

     明暦の大火 (1657年)・・・死者(推計)107,000人
     天和の大火(1682年)・・・ 死者830~3,000人
     勅額火事  (1698年)・・・ 死者3,000人
     六道火事  (1745年)・・・ 死者1,323人
     明和の大火(1772年)・・・ 死者14,700人
     文化の大火(1806年)・・・ 死者1,200人
     文政の大火(1829年)・・・ 死者2,800人
     甲午火事  (1834年)・・・ 死者4,000人
      

    さらに安政江戸大地震M7.0~7.1(1855年)等の大地震も何度も江戸を襲ってい
   る。これに大火事に匹敵する死傷者を出した台風も加わるだろう。
    20世紀になっても関東大震災からわずか22年、東京大空襲でまたもや東京は焼野原
   となってしまった。
    何度、破壊されても不死鳥のように再生する東京(江戸)。
    もちろん、地震、火事、台風の大災害は東京に限ったことではなく、特に大地震は、慶長
   三陸大地震M8.1(1611年)、元禄地震M8.1~8.2(1703年)、宝永大地震M8.4
   ~8.6(1707年)、八重山大地震M7.4~8.0(1771年)、寛政大地震M8.0~8.4
   (1793年)、庄内沖地震M8.1(1833年)、安政東海地震M8.4(1854年)、安政南海
   地震M8.4(1854年)、安政八戸沖地震M7.5~8.0(1856年)等々、全国規模で枚
   挙のいとまがない。

    たしかに日本列島は定期的といっていいくらい大災害に見舞われてきたのだが、火事に
   限ってみれば、江戸時代で京都9回、大阪6回、金沢3回といった程度で江戸の火事の多
   さは突出している。

    こんなに破壊と再生を繰り返している大都市は世界的にも類をみないのだ。
    だから東京(江戸)がゴジラを引き寄せてしまったのだろう。換言するなら戦後の傷跡の
   生々しい時代でも人々は何とも思わないし、むしろゴジラに破壊神としての自然を見てい
   たのかもしれない。



   【ゴジラ前史としての東宝戦争映画】

    「ゴジラ」(1954年)を語る時、円谷英二の存在抜きでは語れない。
    彼は戦前、戦中と何本もの劇場戦争映画、文化映画(教材映画)をものしている。

     〈教材映画〉
       飛行機は何故飛ぶか(1939年、東宝)
      グライダー(1939年、東宝)
      九九式軽機関銃(1939年、東宝)― 陸軍兵への教材映画。
      水平爆撃理論編(1940年、東宝) ― 真珠湾攻撃のマニュアルとなる。
      皇道日本(1940年、東京国策映画)
      水平爆撃実践編(1940年、東宝)
      浜松重爆撃機(1941年、東宝)

     〈劇場戦争映画〉
      海軍爆撃隊(1940年、東宝)
      燃ゆる大空(1940年、東宝)
      南海の花束(1942年、東宝)
      翼の凱歌(1942年、東宝)
      ハワイ・マレー沖海戦(1942年、東宝)

    主に特撮、撮影を担当したものが多いが、演出した作品も含まれる。
    円谷氏の特撮は数々あれど、有名なのはミニチュアワークだ。
    日本は盆栽の国であってそのエートスが特撮のミニチュアワークに受け継がれている。
    確かにそうだと思うがそれだけではない。円谷氏のミニチュアが精巧なのは、連合艦隊
   の練習船「浅間」の乗船経験に基づき記録映画も作っているからに違いない。
    だからこそ「真珠湾攻撃」の教材となる映画がつくれたのだと思う。
    「ゴジラ」以降の怪獣特撮映画に比べると、これら作品群は世間的には有名でない。
    これら劇場用戦争映画と教材映画、記録映画は、戦後、円谷英二が「ゴジラ」やSF特撮
   映画撮るための前史という風にすら思えてくる。これらの映画がなければ「ゴジラ」はあれ
   ほどの成功を収めただろうか?そもそも製作に踏み切っただろうか?
    逆にこれら戦争映画から「ゴジラ」以降を眺めれば、戦後、反戦映画は作られても好戦
   映画は“ 一億総懺悔 ” の敗戦国ではほぼ不可能となったから、対怪獣という体裁で戦前
   戦中の好戦映画の遺伝子が受け継がれているのかもしれない。
    
    さらに私が注目したいのは若き円谷英二があのアヴァンギャルド映画、衣笠貞之助監
   督「狂った一頁」(1926年=大正15年)に撮影助手として参加していることだ。
    円谷氏は1901年生まれであるから、モダニズムの1920年代(日本で言うと、大正後
   期から昭和初期)に青春時代を過ごしているということになる。
    
    一見、「ゴジラ」(1954年)とは何の関係もないかのようです。

    まあ~、待っていて下さい(笑い)。


                                (つづく)








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