素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

50代男だけが劣化したのか 中篇

     



     さて、本書は共感する部分が多いが、違和感を覚えざるを得ない部分も少なくない。
     例えば、女性は世界中、どこへ行っても一個人としてどっこい生きているのに、50
    代男は大学の同窓とか人脈がないと何にも出来ないが如くのこの件だ。
     シンガポールで小料理屋を開いている日本人女性からの伝聞を紹介している。

      「ウチにはやはり日本人のお客様が多いのだが、40代から50代の男性の方
       は現地駐在員でも長期出張の方でも、初めて顔を合わせたどうしはまず、
       『 大学はどこなんですか 』 という話から始まるのよ。もし、同じ大学だとわ
       かったら、もうたいへん。『 OBの彼を知っているか 』 『 こういう教授がいただ
       ろう 』 『 あの科目は単位が取りづらい 』 とか、多少、年齢が違ってもすぐ意
       気投合して、最後は肩組んで校歌斉唱、なんていうパターンもめずらしくない
       わね。
       同じ大学だというだけで、どうしてあんなに盛りあがれるのかしら。そういう人
       たちはその後も何かと仲良くするみたいね。あの感覚はちょっとわからなかった」
       正直言って、私にもわからない。数人の女性の友人に聞いたが、みな同じだった。

                   ~ 香山リカ 著 「50オトコはなぜ劣化したのか」 ~



     これは別に50代男に限ったことではなく日本の男全般に当てはまることだ。
     それにこれについて心理学者らしくラカンを持ちだして解説するが、ラカンは日本人
    男性と主として分析・研究したのだろうか?違うはずで西欧人にも日本人と同様の心
    的特性を持つ人物がいるからこそかかるラカンの言説が生まれたのだ。一般論たるラ
    カンの言説を個別論、すなわち日本人に当てはめ、これを50代男性に見られる特性と
    するのは大いに違和感ありだ。
     ラカンを持ちだすまでもなく、阿部謹也先生の「世間論」でこれらはすべて説明がつく
    し、「世間論」の方がはるかに正鵠を射ている。

     50代男は殴られてきたのに殴れない世代だという。
     これはおっしゃる通りだ。家父長制の恩恵を受けた最後の世代とも女史は分析する。
     そうなのかもしれない。今や家父長制など時代遅れであって夫婦別姓すら論じられる
    時代だ。ここまでは首肯できるとしても、例によって「マザコン男~」とかいう件があるが、
    いまだにそんなこと言っているのかと言いたくなる。乳離れできないのとマザコン男は
    別ものであり、意外とマザコン男の方が出世したりすることをご存知ないのだろうか?
     香山女史には塩野七生女史の著作を読まれることをお勧めしたい。
     まあ~、このあたりは見解の別れるところだろうが、決定的に違和感を覚えるという
    か、矛盾だとすら思うのはこの件だ。

     「え―、オレ、それほど社会的地位が高いわけじゃないけど、会社の部下の女性
      たちは、フェイスブックにプラモデルの写真アップすると、“ いいね ”を押してくれ
      るよ」などという声が聞こえてきそうだ。
     しかし、それは違う。とくにいまだに男性中心の会社で生きる女性たちは、自分の
     サバイバルのためには、内心では「50にもなってプラモデル?しかもアニメのキャラ
     クター?なにをやってんのよ」と思いつつも、表面ではせっせと「いいね!」を押した
     り、目の前で写真を見せられれば「うわ―、課長ってこんな特技があったんですね!
     すご―い」などと言って手のひとつも叩いて見せたりすることなど、簡単にできるの
     である。また後ほど詳しく述べたいと思うが、50オトコの身勝手さ、甘えなどの多く
     は、こうして女性たちの“ 表面的サポート ” によって成り立っていることに、自分た
     ちもそろそろ気づくべきだ。しかも、そのサポートは何も男性たちを守るために行わ
     れているのではなくて、ひとえにきびしい世の中を生き抜くために女性が身につけ
     た護身術のひとつなのである。

                                    ~ 引用 同上 ~


     今日的エピソードで面白いとも思うが、女性たちのサポートって、今に始まったことだ
    ろうか?それは明らかに違うんじゃないか。
     今の50代男はダメで昔の50代男はもっと大人だったと言いたいらしいが、

      「香山さん、あなたが仰ぎ見ていたようなかつての50代男だってずっと母親、妻
       愛人等々の女性のサポート、もって言うならこれら女性に甘えることによって
       存在していたのですよ。」

     それらの女性は大きく言えば、母親を恒星とするマザコン系宇宙の軌道を回る惑星
    群なのであります。
     これをはっきり見切ってしまったこと、及びその他の理由でかつては仰ぎ見ていた
    上司、先輩らのメッキはいまや私にとって完全に剥げ落ちてしまった。
     「凄いな」と思うのはむしろ同世代の50代男に存在する。
     例えば、指揮者の大野和士氏とかだ。
     政治的、反体制的活動において50代男はダメという香山女史も他の分野での50代
    男の活躍は否定できないだろう。別に誰しも社会や政治にコミットする必要などないの
    だ。「いや、そうは言ってもあまりに傍観者で・・・」と彼女は言うだろう。
     それについては全く同感だ。「結論」は同じだが「アプローチ」が違うだけだ。

     私はたかだか政治ブログをやり、タマにデモに行く程度だが、女史ご指摘の「50代
    男」ではないと思っています。むしろ、彼女同様、周りの50代男にあきれることの方が
    多い。香山女史ご指摘の「大きな物語」の終わりは私も周りの50代男等しく通過して
    いるはずなのだが、どうしたことだろう。
     彼女が唱える「大きな物語」とは資本主義対共産主義とか、新左翼まで続く「政治の
    季節」のことを指すと思われる。
     実はもっと「大きな物語」が日本で言うと、80年代に終わっている。
     モダンの終わり、経済的近代化の終わり(達成)であろう。
     それは「昭和」という時代の終わりとほぼパラレルだ。
     昭和天皇崩御の前に、「昭和」が終わる前にこの転換点、いや、正確には移行期と
    いった方がいいか、これを感じ得たかどうかがその後の道筋を第一義的に分けると
    思う。
     
     「ポストモダン」が云々と言っていた同世代は何にもわかっていなかった、いや、感じて
    いなかったのだ。
     当時は、この移行期が何であるのか明確には誰もわかっていなかったのだから、感じ
    る感じないの差でしかないのだ。

                                         (つづく) 
     






 
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