素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

50代男だけが劣化したのか 後編

    



    思潮としての「ポストモダン」はもうとっくに終わっているが、依然として我々は「ポストモ
   ダン」を漂流している。
    いや、とっくに新しい時代が始まっているという反論もあろうが、そういう御仁には「ポス
   トモダンはウルトラモダンである」という言説の意味をもう一度、噛みしめて欲しい。
    (私はそうは思わないが、世間的には)資本主義一人勝ちの状況におけるIT化による
   サイバー資本主義、グローバル化はハイパーモダン、ウルトラモダンそのものではない
  か。 
    それは、日本のモダニズム時代(大正後期~昭和初期)、丁稚奉公ではなくサラリー
   マンになることがカッコイイ時代、今日同様、企業は合併・吸収を繰り返し、終身雇用はま
   だ少なく雇用が流動的だった約100年弱前と本質的には同じで、より速度と効率が
   上がり、規模が大きくなっただけといえないか。だから当然に「格差」が生じ、少し前では
   あるが、「蟹工船」(1929年)がベストセラーになったりした。
    ビジネスツールが、ビジネスモデルが、スキームが新しくなったようでも本質においては
   変わらない。

    そんな時代、それなりに成功した50代男は何をするのか?
    香山女史ご指摘のとおりだ。

     私のまわりもそうで、医学の学界やシンポジウムに出てそのあとの懇親会に
     行っても、50オトコの話題は「子供の大学受験、クリニックの経営、ゴルフの
     腕前、クルマの買い替え」とかそれくらい。「日本の医療保険制度、TPPが
     実現したらどうなる」などと話しているのは、オンナと60以上のオトコばかりだ。

               ~ 香山 リカ 著 「50オトコはなぜ劣化したのか」 ~

    
    彼らがポストモダンがウルトラモダンだと知ったとしても、「それがどうした!そうするしか
   ないじゃないか!どうにもならないのだから。この先、状況はより苛酷により強固にシステ
   ム化されていくだけさ」と嘯(うそぶ)くだろう。
    さらに、「それならせめて自分に出来ることはこのシステムの中で 『 勝組 』 になること
   だけだ。俺はここまでやって来たんだ。何言ってやがる」と彼らは香山女史に反論するか、
   さもなければせせら笑うだろう。後者である可能性が高いかもしれない。
    約1年前、引用したこの1節をもう一度、引用する。

      「人間は、給料の高を気にしたり、電車がすいていて喜んだりするだけの
      存在じゃない。親父に聞いてみろ!心の底までひっさらうような物凄い
      感動したことがあるかってな!」

      「ああいう男が人を愛するなんてことができるわけがねぇ。
      自分のことばかりよ。心ン中のぞいたら、安っぽくて、簡単で、カラカラ
      音がしてるだろうぜ」

             ~ 山田太一 作 「早春スケッチブック」 シナリオ ~


   
    1983年放送のこのドラマは、当時、記録的低視聴率であったが、どうだろう、2016年
   初版の香山女史の著作とピタリ符合するではないか。


    要するに彼らはもっとも消極的なニヒリストなのである。
    この最も消極的なニヒリストをさらにニヒリズムで微分するような状況は今後も続くだろ
   う。現在がニヒリストを表明できない「最も消極的なニヒリストの時代」であることを認識で
   きるか否かが第2次的分水嶺だと考える。

    
    80年代にモダンの終わりを感受できなかったポストモダンキッヅは今や「保守」や「ネト
   ウヨ」だったりする。これは40代代に多いかもしれない。私の後輩もその一人だ。
    価値相対主義はひっくり返ってヘイトスピーチに様変わりしたりする。
    「ニューアカ」全盛の頃、喧伝された「強度」のもっとも安直な実践がヘイトスピーチだと
   私は考える。それではヘイトスピーチが価値相対主義を切り裂けるかと言うとそんなこと
   はないのだ。彼らはどこまで言っても「絶対の探究者」たり得ないからだ。
    彼らいわゆる「保守」や「ネトウヨ」は「回帰」することによって「ポストモダン」を切り裂こ
   うとしているように見受けられる。ヘイトスピーチはこれら「回帰」を共有する人々の間で
   ある状況限定でのみ説得力を持つのだ。曖昧だった価値相対主義から明確になった
   相対主義に変わったに過ぎないのだ。逆説的なようだが冷静に考えればそういう結論
   に辿りつく。
    彼らの「回帰」は「プレモダン」まで遡ってしまうのかもしれない。だから人権などどうで
   もいいという理屈になるのだろう。

    それでは「ポストモダン」に漂うニヒリズムの濃霧を雲散霧消させる思想、小説、映画
   等々が存在するかというと少なくても私の場合、存在しないのだ。
    かつてはこれらに何らかの期待をしていたが、最も消極的なニヒリズムの前にはこれ
   らは無力であると悟ったというのが正確かもしれない。
    かつては「政治」にほとんど興味のなかった私が「政治」に関心を寄せるようになった
   のは、次のように感じたからに他ならない。

    このニヒリズムの濃霧を切り裂く一閃の稲妻、それは政治だ。

     
    誰もがそう感じるかどうかは定かではないが、今日見られる政治ではなく、リアルに
   ダイナミズムをもった政治ならそう思う人もいるだろう。
    私はこの「政治」への接近が第3次的ターニングポイントだと思う。
    この「政治」への接近は、時に「政治」への失望と変わり、ニヒリズムの霧はさらに濃く
   なっていったりする。私より先に「政治」へ接近しそうなっていった友人が身の回りにいる。
    最後の、第4次的ファクターが一番重要かもしれない。
    
    80年代にモダンの終わりを感受した私は、8~9年前から「あの時と同じだ。また再び
   何かが終わり何かが始まろうとしている」と直感した。だからこのブログを始めたのだ。
    我々は「ポストモダン」を終わらせる「次の時代」のとば口に立っている。
    いや、正確には「次の時代」のさらに「次の時代」が「ポストモダン」を終わらせるのかも
   しれない。予想に反して超・超ウルトラモダンな世界になってしまう可能性もある。
    いずれにせよ、非常にエキサイティングで興味が尽きない。
    それはとてもとても「大きな物語」だ。

    だから大げさと言われようが、「100年に1度の世界の大転換」と呼んでいる。

    香山さん、こういう50代男もいることをお忘れなく。

                                    (了)
    


    


 
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