素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

この世界の片隅に 後編

  


  
   〔情報量の変容・対位法〕

     「シン・ゴジラ」、「君の名は。」、「この世界の片隅に」、昨年の大ヒット3作品に共通す
    るものは何だろうか?
     それぞれ全く違う世界を描いているようで圧倒的情報量という点で共通している。
     (と言いつつ、「君の名は。」はいまだに観ていない“ 非国民 ”ではあるが。
      監督・新海 誠が自作は情報量にもの言わせたと言っているのだから間違いある
      まい)

     「シン・ゴジラ」については既に述べた通りだが、「この世界の片隅に」は違うのではな
    いのか?「シン・ゴジラ」が煮えたぎるような情報の沸騰を描いているのに対して「この
    世界の片隅に」は時代設定もさることながら、水彩画、日本画?のようなタッチで情報量
    など微塵も感じられないかのようである。
     片淵須直監督は風化しつつある戦前・戦中の記憶を後世に残すべく、当時の人々の
    生活、風俗、町並み、自然等々を徹底取材して背景の看板のレタリング、行き交う人々
    衣装の細部に到るまで精緻に描きこんだ。画面のタッチではわからないが、背後には
    膨大な情報量が沈み込んでいる。

     人々はなぜ、ディズニーランドに行きたがるかと言うと、現実の街並みがどんどん人工
    的空間に変貌をとげつつある昨今、キッチュとさせ言えるディズニーランドの人工的空間
    に身を置くことによって却って安心感が得られるからだと説明される。
     私は変わっているのか、うっとうしい程の情報の洪水である「シン・ゴジラ」の世界に
    むしろ“ 居場所 ”を感じるのだ。
     「この世界の片隅に」は一見、全く「情報」というものを感じさせないが、「情報」、正確
    には「情報量」が本作を説話論的に読み解くキーワードだということを押させておこう。

     宮崎 駿にしろ押井 守にせよ「巨匠」と呼ばれる人の映画は「美術」(映画の場合、
    セット、アニメの場合、背景をいう)、「情報量」の映画となるものです。
     実写でも「巨匠」と呼ばれる人の作品は同様の傾向が伺えるし、今日、優れた作家の
    作品は「情報量」がものをいう。AKB48だって、あれだけの人数が踊るのだから「情報
    量」に換算したら圧倒的なものとなる。
     
     本作の特異な点は、突如として「情報量」が変容することが挙げられるだろう。
     鉛筆、クレヨン?で描かれてすずさんの絵がアニメの原画のようにインサートされたり、
    格子の中で彼女の絵が絵コンテのように浮かんでは消えたり、インサートされたすずさ
    んの絵の中に彼女らが逆い吸いこまれたりする。
     これらはすべて様式のアクセントに過ぎないのかというとどうもそうではないことにやが
    て気づくのであります。
     すずさんが描く素描はラフタッチであり、もちろんそれはそれでいいのだが、これらを
    「情報量」に換算するとどうなるのか?
     デジカメの画像処理能力ではないが、地の文章のアニメーションに比べれば、インサ
    ートされるすずさんの絵の画素数は明らかに落ちる。この情報量(画素数)の変容こそ
    この映画の魅力、秘密ではないかと一晩考えて結論づけた。
     くり返される「情報量」の変容は単なる様式のアクセントではなく、いわばつまり説話
    論的伏線だといえよう。どういうことかと言うと、「ウエストサイドストーリー」のオープニ
    ング、CADで設計図描いているようにアットランダムにキャンバスのような画面に直線
    が引かれる。かなり長いこと直線が引かれ、何のことやらと思った頃、これらがNYの
    摩天楼の外形線をなぞったものだと明らかになる。次の画面では、カメラは地上に降り
    てきてバスケットコートとかで俳優たちがいかにも様式的な動きをする。いかにミュージ
    カルとはいえ、いきなりこんな傾(かぶ)いた動きされたら笑ってしまうのだ。冒頭のア
    ブストラクトなシーンが延々と続くからこそこの不自然なアクションにも入っていけるの
    だ。これと同様、すずさんの絵のインサートの繰り返しははクライマックスのための説
    話論的伏線だ。

     さて、コトリンゴの「悲しくてやりきれない」で始まる本作は「対位法」の映画だと容
    易に推察されよう。ここでいう「対位法」とは音楽用語ではなく、映画用語であります。
     黒澤 明やスタンリー・キューブリックが得意とした画面と音楽の「対位法」だ。
     (もっとも武満 徹氏はこの映画の「対位法」に異論を唱えているが、とりあえず、
      今回はこれを「対位法」と呼ばせてもらいます。)
      
     例えば「野良犬」の終盤、犯人(木村 功)と刑事(三船敏郎)が対峙する緊迫した
    シーンの背後では郊外の一軒家でピアノの練習曲がのんきに流れていた。
     音楽ではないが、「生きる」で主人公役の志村 喬がガンで余命幾ばくもない境遇
    で落ち込んでいる時、背後ではうら若き乙女たちが「キャ、キャ」と嬌声をあげていた。
     「時計仕掛けのオレンジ」でアレックスがレイプしながら歌うのはミュージカルナン
    バー「雨に歌えば」であった。これらはすべて画面と音楽(音)の対位法だ。

     本作のクライマックスの一つ、すずさんが地中の時限爆弾でつれていた晴美と自分
    の右腕を失ってしまうシーンでは一瞬、画面が暗転する。つまり、「情報量」は急速に
    低減する。この暗転画面ですずさんの素描のようなタッチの絵で何が起こったかすべ
    てが語られる。このシーンは重要なシーンであるにも拘らず急激に低減した「情報量」
    で描かれるのだ。私は映画技法研究家ではないのでこれを何と呼んだら正確かわか
    らないが、これはドラマと画面の対位法ではないか。
     その昔、NHK教育テレビ(今のEテレ)で黒澤 明が自身の創作技法を自作動画つ
    きで解説していた。 黒澤曰く「何でみんな肝心なシーンで寄りたがるかね。僕は肝心
    なシーンは逆に思いっきり引くけどね」「酔いどれ天使」の有名なペンキまみれの格闘
    シーンへの導入部を思い出してもらいたい。廊下から部屋のドアを開ける際、思いっき
    り引いた縦構図の廊下の画面がインサートされる。このシーンを見せながら黒澤は説
    明していた。
     「この世界の片隅に」ですずさんが右腕を爆弾で飛ばされるシーンが、私にはこの
    「酔いどれ天使」の引いた画面に似てるまで言わないが、通じるものがあると思える。
 
     すざさんが右腕を失ってからはさらに手のこんだ「対位法」が使われる。
     右腕を失ってもしばらくは「ええんじゃよ」の精神で平静を装っていたすずさんが、突如
    として感情を露わにするシーンは画面がクレヨン、油絵?のように変わりこれまた急速に
    「情報量」(画素数)が低減する。ここまではドラマと画面の情報量による「体位法」なの
    だが、この後ナレーションがかぶってくると事態はさらに変容する。「右腕があれば何が
    出来たか」を次々とナレーションでかぶせるとドリーバックズームインのような錯覚を覚
    えるのだ。

     私が知る限り、ドラマと画面の「情報量」による対位法や、画面とナレーションによる
    ドリーバックズームイン類似の効果に挑んだ映画は本作が初めてであります。
     本作の「ええんじゃよ」の精神に満ちた「美しき日本」とのん演じるすずさんのキャラ
    クターに魅せられ、これら新基軸の映画技法に心揺さぶられた人々が「この世界の片
    隅に」をベストワンに選んだのだと思う。

     「シン・ゴジラ」で述べたことを一部、訂正しないといけない。
     私は「この世界の片隅に」でも2度、鳥肌が立った。
     すずさんが右腕を失う爆弾のシーンとラストに到る終盤のシーンだ。

     でも、「シン・ゴジラ」が私の昨年度ベストワンであることは変わらない。
     その理由は「シン・ゴジラ」で述べた通りです。

                                    (了)



            
     もはやアニメ監督ほど映画をコントロール仕切る、若しくはこだわり抜く
     実写映画監督は日本にはいないのではないかと最近、思うのです。










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