素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

今時の「保守」を苦々しく思っている貴兄へ 中編

   


   山崎氏講演で語られなかったことを私流に付言したが、そうしないと以下の言説が意味不
  明になるのです。
   ご存知のように山崎氏は小林よしのり氏に容赦なき批判を加えている。
   (詳しくは、こちらあたりから検索されたし)
   それにもかかわらず、彼は小林氏を今の保守論壇で唯一語るにたる人物だと一定の評価
  もしている。
   何故?
   曰く、小林よしのり氏が「作品」を書いているからだそうだ。
   これに対して西部氏は作品を書いてないからダメだということらしい。
   作家は、作品を書いて「歴史」に参加する。
   「歴史」に参加することなく、外野でやいのやいの騒いでいても取り上げるに値しないとい
  うことらしい。


   
   いきなり話は飛ぶが、山崎氏は講演の最後を「ものをつくる人を信用し、文学から保守を
  再建すべし」と締めくくった。
   私は山崎氏のすべてに同意するわけではないが、「作家」=ものをつくる人がエラ
  イというスタンスには全く同感であります。
 
   山崎氏が説くように「作家」に「保守」の基盤を置くとするなら、「保守」には「才能」
  が必要であるという私の補足も外れてはいまい。
   この際だから告白するが、政治ブログを書いていながら、私は別に政治家がエライとは
  思っていない。換言すれば(どの分野でも同じだと思うが)、

   政治家だからエライのではなく、エライ政治家がいるだけだ。

   私の価値体系で一番エライのは「作家」であります。
   でも、ここでいう「作家」とは山崎氏のいう狭義での「作家」ではなく、音楽、美術、
  映画、マンガ、演劇etc、ありとあらゆる分野の「作家」であります。小説書くから「作家」
  とは限らず、単なる文章デザイナーも少なくない。
   私の価値体系では「作家」と「デザイナー」は厳然と峻別されるものであります。
   こんなこと言うと「デザイナー」という肩書の人に怒られそうだが、デザイナーの中にも
 もちろん単なる「デザイナー」と「作家」がいることは言うまでもない。


   
   どうも脱線ぎみだが、山崎氏の言説について私流の解釈を試みる。
   では何故「作家」がエライのか?
   「作家」というからには、いっぱいいっぱいであれ、ベストセラーであれ商業ベースに
  のっているのである。趣味の陶芸は作家の仕事ではない。
   作家で食っていくには己の「表現」と「市場」(需要)の間で血みどろの戦いを演じ、
  ギリギリの選択をしているはずだ。つまり彼らにはリアリティーがあるのだ。
   さらに「市場」(需要)という移り気な怪物を相手にしているからには、常に
  「新しいぽっいもの」の誘惑にさらされている。でも、「新しいぽっいもの」に追隋する
  のは「作家」のエピゴーネンたる「デザイナー」の仕事であって、「作家」の仕事では
  ない。
   かくして「作家」は貧乏になりがちで、「デザイナー」は富裕であったりする。
   それにもかかわらず、「新しいぽっいもの」に堕することなく、「真に新しいもの」
  を追い求める「作家」は、「保守」たりうる必要最低条件を、自然、具備することに
  なるのではないか!
(そのまま、終生アヴァンギャルドの人もいるけれど)  
   ご存知のように「作家」と呼ばれる人々が衰退し、絶滅の危機に瀕している。
   その反射として「デザイナー」が幅を利かせ、有名な三島の予言どおりの日本になって
  いるのではないか!

    このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに
    深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機質な、からつぽな、ニュートラル
    な、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであらう。

                ~「果たし得てゐない約束―私の中の二十五年」~

  
                            (つづく)






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