素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

架空劇場 「喜びの琴」

     



   当ブログのテーマの一つ 「100年に1度の世界の大転換」については、ポツリポツリと書
  いておりますが、もう一つのテーマ 「50年に1度の政権交代」については、とんと御無沙汰
  です。国内の政局も深刻な事態を向かえつつあるのだが、どうも書く気がしないのです。

   「反骨精神」というよりも単なる「野党根性」しか持ち合わせてなく、「統治」の何たるか
  を心得ていない男が王権につくとどうなるのか、TVの再現ドラマよりもクサイ田舎芝居が
  繰り広げられている。王権維持のためには何でもすると言っても、それはマキャベリズム
  ではなく、ドブねずみのようにうす汚い「こずるさ」だけが目につく。
   「統治」の何たるかを心得ている自民党の政治家ならマキャベリズムを推し進める。
   この場合、マキャベリズムとは、野中広務氏がいみじくみも語ってように
   「悪魔、小沢にひれ伏すこと」である。
   その上で、少数野党と国対政治(裏取引)をすることが「統治」を心得たマキャベリズムと
  いうものだろう。

   今やイデオロギー的対立はないだが、「政策、政策」と言ったところで、
  「政治の奥義」≒「統治」を知らなければ、政策など雲散霧消して権力保持のため日本独特
  の党派性にからめとられてしまうということである。
   これらをいくら書いても不毛であり、精神衛生上よろしくないのでやめておこう。

   ただ、やはり政治家にとって第一義は「政策」ではないとだけは記しておこう。
   「政策」が一番、わかりやすいので誰もがアピールし、有権者も耳をそば立てる。
   政策通にこしたことないが、どうせ誰かのパクリであって、オリジナルで有益な政策など
  限られている。
   ロン・ポールのように「FRB解体」を唱えるなら、オリジナルで有益な政策と傾聴に
  値するが。


 
   話は飛ぶが、三島由紀夫が「文学座」を脱退するきっかけとなった「喜びの琴」事件を
  ご存知だろうか?この戯曲を上演するか否かをめぐって文学座と対立した三島は劇団を
  去ることとなった。
   やや長いが梗概を引用してみよう。


    世間が「言論統制法」めぐつて騒然としてゐる近未来の都内某警察署の公安係室。
    筋金入りの反共として知られる松村公安係巡査部長は、極左〈党〉による列車転覆
    計画の情報を得、これまた共産主義を憎悪し、自分を尊敬する部下の片桐巡査を
    現場に向かはせる。事件現場で片桐は犯人を逮捕するが、それは〈党首〉ではな
    く、右翼だつた。左翼の失墜を目論んだ右翼による陰謀だつたと見られ、事件を
    摘発した片桐は同僚たちから英雄扱ひされる、ところがその先にさらにどんでん返
    しがあつて、事件は〈党〉のスパイとして公安警察に潜りこんだ松村の奸計による
    ものだつたことが明らかになる。
    “右翼の陰謀”を際立させて社会不安を巻き起こし、保守政党に打撃を与へようと
    いふのが狙いで、片桐は敬慕する松村の偽装工作に利用されたのだつた。
    手錠に拘束された松村を見て「まさかあなたが」と声かける片桐に向かつて、
    松村は、一部始終について説明し、破壊への衝動を語り、自分への憎悪は裏切り
    に対するものなのか、それとも思想に対するものなのかと反問し、人を信じすぎ
    る片桐自身に罪があるのではないかと迫る。
    思想の絶対化を唯一の拠り所として生きてきた片桐は、その思想が相対化される
    といふ絶対的な孤独の中で、観客には聞こえない琴の音に耳をすませ、仕事に
    戻る――。

       ~ 遠藤浩一著「福田恆存と三島由紀夫」 (原文旧かなづかい)~
 


   何かすごく面白そうじゃありませんか?
   やや通俗的という感じでありますが、そのためか三島は何度も書き直したという。
   練りに練ったセリフと作劇が用意されていたはずです。
   どこかで上演したのか寡聞にして私は知らないが、設定変えてどこかでやって欲しいね。
   
   近未来の「言論統制法」とか、どうもひっかかるじゃないの。
   「思想の絶対化を唯一の拠り所」にしている主人公が、思想が相対化されるという
  絶対的孤独の中で立ちすくむラストを想像するだけで鳥肌が立つよ。
   だってちっとも古くないし、むしろ今日的テーマだ。

   (そんなに単純ではないのだが)左翼は総崩れで、保守だけが有効なるが故に生き残って
  いると信じて疑わない自称「保守」の横つらに冷や水ぶっかけて欲しいね。
   
   昔は「イデオロギー」で今は「政策」に置き換わったということかしらん。
   当時の文学座は三島に「共産党員何人ゐるんだ?」と問われるほど左傾化していたよ
  うだ。杉村春子、長岡輝子らが難色を示し上演保留になりかかったら、三島がさっさと
  中止を申しいれたという。この時、三島が突き付けた「見下り半」がふるっている。



    諸君が芸術および芸術家に対して抱いてゐる甘い小ずるい観念が今やはつきりした。
    なるほど「喜びの琴」は今までの私の作風と全くちがつた作品で、危険を内包した
    戯曲であらう。しかしこの程度の作品におどろくくらゐなら、諸君は今まで私を何と
    思つてゐたのか。思想的に無害な、客の入りのいい芝居だけを書く座付作家だと
    ナメてゐたのか。さういふ無害なものだけを芸術として祭り上げ、腹の底には生煮
    えの政治的偏向を隠し、以て芸術至上主義だの現代劇の樹立だのを謳つてゐた
    なら、それは偽善的な商業主義以外の何ものなのか。
    諸君によく知つてもらひたいことがある。芸術には必ず針がある。毒がある。この毒
    をのまずにミツだけを吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと
    育てることができる芸術など、この世に存在しない。
    諸君を北風の中へ引張り出して鍛えてやらうと思つたのに、ふたたび温室の中へ
    はひ込むなら、私は残念ながら諸君とタモトを分つ他はないのである。
    今年一月の分裂事件以後、私は永年世話になり、かつ、相共に助けてきた諸君の
    ために、微力をつくしてきたつもりである。諸君に対する愛情は、今急に吹き消さう
    としても、吹き消せるものではない。しかし、諸君が愚劣の中へおぼれようとする
    とき、私にはもうその手を引張つて助け上げる力はない。
    むりにさうすれば、私も共に愚劣へおぼれ込む他はないからだ。

     ~ 「 『喜びの琴』の上演拒否について――文学座の諸君への『公開状』」~
                「朝日新聞」昭和38年11月27日 (原文旧かなづかい) 



   「芸術には必ず針がある、毒がある。この毒をのまずしてミツだけ吸うことはできない」
   いわずもがなだが、蓋し名言だ。
 
   「芸術」を「政治」に置き換えてもあながち間違いではないんじゃないか! 
   これらを承知していれば、「クリーン、クリーン」と政治家が叫ぶことはあるまい。
   それでも有権者は政治の素人なのだから政治に「クリーン」を求めるのもよしとしよう。
   だが、政治にプロたる政治家がそれではいけない。
  
   この時の文学座のメンバーが今の民主党の政治家に重なって見えるといったら言い過ぎ
  だろうか?
  




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