素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「樅の木は残った」、そして「本気」は去った(後編)



   そもそも三島の演説はマイクやスピーカーの状態がよろしくなく聞こえないうえに、自衛
  隊員は三島の話に聞く耳を持たず、ヤジで応酬した。この点を押さえておかないといけ
  ない。それでも呉 智英は説く。


    三島が自衛隊本部のバルコニーから自衛隊員に呼びかける様子を描いた
    筒井康隆「ダンヌンツィオに夢中」は、いかにも筒井らしい皮肉な目で、三島
    に滑稽を演じさせている。私はその意識を認めつつも、共感する気にはなれない。
    「本気」が滑稽にしかならない時代を私たちは生きることになったからである。

     ~ 中条省平 編・監修 「三島由紀夫が死んだ日」収録
        呉 智英 「 『本気』の時代の終焉 」~


      
    70年代から80年代への転換をリアルタイムで経験したものにとって、
   「 『本気』が滑稽にしかならない時代 」とは実に正鵠を射た表現である。
    基本的には今でもこの趨勢は変わらない。
    換言するなら、「三島事件」は自衛隊の野次と嘲笑からパロディーを経て、最も消極的
   なニヒリズムの濃霧が世の中を埋めつくした時代になって、ようやく光輝くのであります。
    イデオロギーや主義・主張ではなく行動様式としての「本気」という視点によって。
    
    それは三島が平田弘史の劇画、赤塚不二夫のマンガを愛好し、恐ろしいまで文化的受
   容性を示しながらも、これらサブカルチャーに耽溺する若者がやがて正当的な教養へと
   回帰することを見切っていることに照応するようにすら思える。
    呉 智英の話に再び耳を傾けよう。


    三島由紀夫は私財を擲(なげう)って楯の会を作った。共産主義革命を防ぎ、ソ連
    や支那、北朝鮮の侵略に先頭に立って闘う民兵組織である。その賛否・是非は政治
    的立場によって分かれるだろう。それでも、三島はこの行動について「本気」だった。
    小説家の気まぐれな道楽ではなかった。(中略)
    「本気」の武士より、権利義務の中でのみ仕事する公務員の方が尊ばれ、価値が  
    ある時代が始まりかけていた。換言すれば、これは「実務」の時代の始まりであった。

                    ~ 引用 同上 ~
 

   「 『実務』の時代 」とはこれまた言い得て妙であります。
   やれ保守がどうの、三島がどうのいう若い衆も、我々世代よりもはるかに「実務」を
  重んじる。ドラッガーや勝間和代の本が売れるのはその現れに過ぎず、パロディアスで
  おバカな80年代の方がもっと「文化的」であったと思う。
   もちろん、私も呉 智英も「実務」の効用を否定するものではない。
   彼は冷徹に現実を見据える。

    私は実務の時代の価値を否定しない。「本気」の志、「本気」のロマンより、実効
    性のある「実務」こそ、人々を幸福にする。英雄が待ち望まれる時代は不幸な時代
    である。思想や哲学や純文学を集める時代も不幸な時代である。1970年以降、
    日本は不幸な時代に別れを告げた。英雄はいうまでもなく、思想や哲学や純文学
    総じて真面目な「本気」は「実務」の前に膝を屈し、幸福な時代が到来した。
    切腹など嘲笑されればいいのである。

                   ~ 引用 同上 ~


   ほぼ彼の主張どおりだと思いますが、事態はさらに先へ進んでいると思うのです。
   「(経済的)近代化達成」以前の価値観でいうなら、今は幸福な時代かもしれないが、
  現在、いや90年代でも、そんなに幸福な時代ではないことは周知のとおりです。
   彼曰くの「実務」にどっぷり浸かり、最も消極的なニヒリズムの濃霧の中をかきわけ
  ながら進む人々が、時代を照らすカンテラとして「本気」を希求するとしたら、危険な
  匂いがします。

   「『本気』の時代は三島の自刃と共に終わった」―― これについては留保していたが、
  少しかっこ良すぎるのであって、我々は少なくて二つのいびつでグロテスクな「本気」を
  知っている。「連合赤軍事件」と「オウム事件」であります。
   こういう形でしか「本気」を体現できないのであれば、呉曰くのように切腹(≒本気)
  など嘲笑されればいのかもしれない。
 
   でも、遊び、文化の世界には「本気」があって欲しいと思うのであります。
   これらがゆる~く緩んだままなら、そもそも底が抜けてしまうと思うからです。
   遊び、文化の「底抜けの堕落」はさらに相対主義と最も消極的なニヒリズムを  
  助長し、人々をいびつでグロテスクな「本気」へと駆り立てるように思えてならない。

   「底抜けの堕落」はあちらこちらに横溢していて、もう底抜けしたんだから、収まる
  ところに収まるかと思いきや、どこまでも緩みぱっなしのようです。       
   そんな折、「樅の木は残った」最終回における平 幹二朗の演技は「本気」を体現
  していて、うれしかったのであります。


   
   正確には、これらは20世紀に当てはまることであって、21世紀現在、事態はこれと
  ややことなるのであります。「3.11」以降、我々は新たな事態をむかえている。
   いや、気づいている人にとって、少し前から「時代」は動いているのだ。
   世間一般には、相変わらず「実務の時代」≒「終わらない日常」の時代が続いている
  のだが、「100年に1度の世界の大転換」に気づいた人々にとって、こんなに激動の
  時代はそうそうあるものではなく、どこが「終わらない日常」だと言いたくなる。
   もっとも、「本気」を体現しているのはベンさん他、一部の人々であって、我々は
  「非日常」を若干、感じている程度かもしれないが。


   そんなパラレルワールドな時代、「本気」≒「非日常」の政治を体現しようとする
  政治家がどれほどいるのかと問われれば、老若男女を問わず、いささか心もとないと
  言わざるをえない。
 
            (了)





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