素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「3.11」後にポストモダン作家を観る(ソフィア・コッポラの巻)前編

   

 
   佐藤優氏は、「『3.11』で戦後は終わった」という。
   「3.11」を歴史の転換点とみるむきは少なくない。
   映画くらいそんな「歴史」とは決別して、のんきに観たいというが人情だろう。
   しかし、映画はまちがいなくモダンの産物であるのだが、淀川長治さん曰くのように「常に
  新しくなってきた」のであります。

   私としては「3.11」の少し前に「21世紀」は始まっているのであって、今や“20世紀
  のあだ花”のようなポストモダンは終わっている。80年代後半か、90年代か、定かでない
  が終わっているのだ。

   そういう状況にあって、ソフィア・コッポラはいまだにポストモダンの溶液に浸っている作
  家に思われるのです。また、彼女は私にとって西川美和と共に数少ない期待する女流監
  督の一人でもあります。いやがうえにも新作「Somewhere」への期待が高まるのです
  が、まずはポストモダン作家としての彼女にふれておこう。



 〔ポストモダン作家はエトランゼ(異邦人)〕

   刷り込み映画や3D映画がはやりの昨今で、ポストモダン作家なぞまだ生息しているので
  ありましょうか?はっきり言って、ポストモダン作家は居場所がなくなったのか、やること
  がなくなったのか、描くことがなくなったのか知りませんが、旧作のリメイクに精を出して
  います。

    ○ ガス・ヴァン・サント ⇒ アルフレッド・ヒッチコック「サイコ」
    ○ 石井 克人      ⇒ 清水 宏「按摩と女」
    ○ 森田 芳光      ⇒ 黒澤 明「椿三十郎」 
   
   小説家はまだしぶとく生き残っているのかもしれませんが、映画監督に関してポストモダン
  作家はやはりほぼ全滅に近いかのようです。
   ポストモダンのはしりは70年代でしょうが、花盛りは80年代でありましょう。
   この時代、「時代」ときり結ばないポストモダンの姿勢そのものが「時代」だったのであり
  ます。そもそも世界的に好景気でのんきに過ごせた時代でもありました。
   
   アメリカに限ってみても「9.11」後、世界は一変しました。
   「自由と人権のないアメリカ」、「監視と密告のアメリカ」に変容してしまったことは繰り
  返し述べてきました。いくら時代ときり結ばないとはいえ、そんなこと言っていられない状況
  になってしまったのです。映画は必ずしも「時代」なんか描かなくてもいいのですが、仮に
  「時代精神の発現」が映画の特質とするなら、クリストファー・ノーラン「ダークナイト」は
  久しぶりに見事な「時代精神の発現」であります。

   いまや、ポストモダン作家は居場所がなくなったエトランゼ(異邦人)じゃないかと
  思います。
アメリカに居てもエトランゼなら外国へ行ってしまえという訳ではないのでしょう
  が、ソフィア・コッポラは日本にポストモダンを見出したのだと思います。
   それが、「ロストイントランスレーション」でありましょう。

   彼女がストレートにポストモダン作家足りえているのは実はこの1本だけで、処女作
  「バージン・スーサイズ」はフィルム的感性によるノスタルジー、ガーリームービー
  「マリーアントワネット」はポストモダンに親和性を示すプレモダンへの逃避でありま
  しょう。

   「ロストイントランスレーション」は「9.11」以後、いよいよ居場所がなくなった、
  ポストモダン作家の逃避が異化作用と作家の本質への肉薄として見事に結実している1本
  であります。多感な思春期のスカーレット・ヨハンソンのエトランゼとしての異化作用と空虚
  感と不思議な浮遊感が、マークジェイコブズがかすむくらいのソフィア・コッポラの
  スーパーハイセンスな映像と音楽によって表出されます。時折漂う不思議な浮遊感に私は
  これは本当に21世紀の日本なのか、80年代初頭の日本ではないのかと錯覚を覚えま
  した。
   スカヨハの相手役がビルマーレーのようなおっさんではなくて恋愛対象となり得るような
  若い男なら世間的に通りのいい「モダンな映画」、要するにハリウッド映画になったろうが、
  S・コッポラはそんなことは間違ってもしない。異国であろうと本国であろうと、何がしか
  の人間関係で埋まる孤独ではない孤独こそポストモダン作家の対象であり、その
  孤独すらスルーして生まれる上滑りの異化作用こそ彼らポストモダン作家の表現
  の源泉だろう。
 
   プレモダンの写真家、ユジューヌ・アッジェ系列の写真家ヒロミックスがエンドロールで
  ゴダール流に映し出されるあたりもポストモダン作家S・コッポラの本質全開のポスト
  モダン映画といえよう。

   そんなソフィアが男性を主人公にして現代アメリカに何を描くか期待されるのだが・・・。

                             (つづく)



ロストイントランスレーション
 サントラも擦り切れるほど聞いた。「擦り切れる」とは
 レコードに使う言葉がが、CDも100回以上 聞くと
 飛んだりしないか。 


   PS.偶然見つけたが、本日、ドラマ「JIN 仁」に出ていた緒川たまきと
      ソフィア・コッポラは同じ年。緒川さんの夫は、ケラリーノ・サンドロヴィッチ。
      緒川さんもどこかポストモダンちっくな匂いがしたが、やはりそうかいう感じ。
      この世代くらいがポストモダンにふれた最後ではないかと思うのです。






   
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