素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「3.11」後にポストモダン作家を観る(ソフィア・コッポラの巻) 後編



 〔Somewhere〕 

   ソフィアの新作「Somewhere」はベネチアの金獅子賞(グランプリ)をとってしまった。
   ゴダール「カルメンという名の女」の時に端的なようにベネチアは、時折、インチキを
  する。つまり、出来レースであります。ゴダールの時は、審査員長 B・ベルトリッチ以
  下、世界中から親ゴダール派を審査員として召集し、最初からゴダールにグランプリ
  とらせるべくして開かれた。以下、ネタバレを含みます。

   そういうわけで期待と不安が入り混じるなかで、冒頭、映画俳優の主人公(スティーヴン
  ドーフ)がサーキットのようなところでフェラーリを疾走させ周回する。
   フレームアウトしても、フェラーリのエグゾーストノイズを響かせながら、据えっ放しの
  カメラにフレームインしてくる。私はこれを何回も繰り返すなら、この映画は×で、あっけ
  なく次の場面に展開するなら、○と勝手に決めていた。
   フェラーリで疾走しながらラストへ向かうシークエンスから逆算するなら、ここのリズム
  は反復なのかもしれないが・・・・・。
   
   S・ドーフ演じる主人公は娘がいて、妻とは別居もしくは離婚しているらしい。
   彼は仕事柄、「ロストイントランスレーション」と同様、ホテル暮らしの“浮草”であり
  ます。

   部屋にポールダンス・デルヘリ?のおねちゃん2人組呼んで、ベットに寝そべって彼女ら
  がセクシーポーズとりながらポールをクルクル回転するのを眺めている。
   このポールダンスの2組が双子のようによく似ていて、どこかデビッド・リンチ・テイス
  トで冒頭の不安は払しょくされ、意外とイケるかもと思い直す。
   「模倣と反復」は、ポストモダン前期、若しくはプレ「ポストモダン」ですが、ソフィア
  はそんな古めかしいことはしません。

   それでも彼女は“由緒正しい”ポストモダン作家なのであります。
   まず挙げられるのは、「社会」や「時代」にコミットすることなく、半径数十メートルの
  ことしか関心ないのです。「9.11」後、世界がどうなっていようとおかまいなし。
   さりとて、ウエルメイドやエンタメしてりゃいいというほど愚鈍でも能天気でもない。
   S・ドーフがイタリアで記者会見した際、「グローバリズムとポストモダンの関係は?」
  などと記者に質問させている。

   セレブらしいS・ドーフはホテルのベッドで横になっているか、ゲームをしている。
   (楽器ゲームとかカジノとか)その他はおねえちゃんと情事、なんとも自堕落。

    チェックインなら寝顔を見せるだけ♪部屋のドアは金属のメタルで♪
    シャレタテレビのプラグはぬいてあり♪二人きりでも気持ちは交い合う♪ 

             ~ 井上陽水 「リバーサイドホテル」 ~ 
    
   この歌も今から振り返れば、ポストモダンと世紀末のカクテルだろう。
   でも、4分のこの歌の方が90分を超えるこの映画よりはるかに情景が伝わる。 

   主人公に女漁りをさせつつ、“由緒正しい”ポストモダン作家、ソフィアは当然に
  セックスに飽きている。
刺激を求めて誘惑に負けてゆきずりの情事を重ねる主人公だが
  ベッドシーンは直接的には描かれない。彼女たちもファション雑誌のポートレイトのように
  洗練され、生々しさをまるで感じない。

   私は彼女を擁護するつもりで「ポストモダン作家」というフレーズを使ってきたが、それに
  しても何かが決定的に違うのであります。それは、S・ドーフ及び彼への演出であります。
   彼はデビッド・ベッカムのNGみたいで、そこそこいい男だが、イタリアで表彰されるほど
  売れているようにはどうも見えない。同じシナリオ、同じ演出でも全盛期のミッキー・ローク
  あたりがやったら、もう少しはまったかもしれない。
   それにまだ若い男が、デルヘリ呼んでポールダンスする様を眺めているか?それはおじ
  いちゃんのすることでしょ。ポストモダンの行きつく先かもしれない、草食系男子を想定して
  もどうもリアリティーがない。

   あっさり言ってしまうと、ソフィア・コッポラは男が描けない。
   やはり彼女はどこかレズビアン的で、娘(エル・ファニング)がフギィアスケートする様を
  父親が見守るシーンも父親の視点ではなく、どうもそんな視線を感じる。
   ポールダンスのシーンも女性生理で女性として男の前で踊ってみたいという欲望が男の
  生理の演出より優先しているように思う。(その辺は本人も自覚しているのか、次回作は
  3度、キルスティン・ダンストと組みらしい)

   ポストモダンは破綻した家庭、若しくは奇妙な家庭が前提かもしれない。
   でも、本作の父娘関係は適当にいい感じで、都合よく無責任だ。
   もう反抗期に入るだろう娘の年齢を考えるとこれもウソくさい。
   奇妙な家庭なら、よしもとばなな「キッチン」くらい奇妙じゃなきゃ面白くない。
   破綻した家庭なら、「レスラー」のミッキー・ロークくらい自堕落で、ダメダメおやじじゃ
  なきゃ、つまらない。(ミッキー・ロークのダメさ加減はブルースだ)

             ブラックスワン
             「レスラー」のダーレン・アロノフスキー監督の新作
              これは期待できる。そういえば、「レスラー」も
              ベネチアのグランリとっている。

   
   決定的に許せないのは、イタリアの3星ホテル?のスイートルームで、夜中に娘と
  ジェラートなめている男に終盤「俺は空っぽだ」と呟かせることだ。

   寅さんじゃないが、それを言っちゃお終いよ!そんなことハナからわかっているんだから。
   表層をツルツル上滑りしながら、異化作用を連ねていくのがポストモダンとするな
  らば、「俺は空っぽだ」はポストモダンの死を意味する。

   ポストモダン云々を抜きにしても、「9.11」後のアメリカの一端を知る私にとって、
  このセリフはジェラートのように「映画」そのものを溶かすものだ。
   それでも「俺は空っぽだ」を言わせたいならポストモダン表現捨てて、リアリティーを求め
  てロバート・アルトマンやジョン・カサベテスのように「人間」に切り込んでいかいといけない。 
   おそらくソフィア・コッポラは、それは不得手であろう。彼女はポストモダンの様相の一つ
  摩擦回避のスタンスだろうから。
   どのようなスタンスをとろうと「9.11」後、アメリカを代表する作家がこれじゃアカン
  でしょ。
   
   今さらながらフェリーニは偉大であります。
   「甘い生活」で空虚なカラ騒ぎの熱病と狂態、お祭りの後の侘しさを描きながらも、ラスト
  で純真無垢な少女の背を向け歩き始めるという禁欲を心得ていた。
   「甘い生活」といいながら、苦さをにじませていた。

   日本の場合、ポストモダン、いやサブカルチャーは「オタク」に回収される。
   そして「オタク」はサブカルチャーそのものを食いちぎって生き続けるしぶとさがある。
   アメリカのポストモダンは、「オタク」に憧れつつ「オタク」にはなり切れず、ただ漂い
  苦しいのかもしれない。
   冒頭の嫌な予感は的中した。くるくる旋回して自己撞着しているのは主人公だけじゃない。


   ソフィア・コッポラよ!どこへ行く!


   我々、日本人は「9.11」後は、漏れ聞く程度にしか知らないが、これから「3.11」
  後が始まる。「9.11」の真相を知りつつ、「3.11」後を生きる我々のハードルは、
  世界一高いのかもしれない。

   そんな時代、ポストモダン作家は絶滅危惧種なのか!

   いや、「 『9.11』、『3.11』、それがなんやねん!」とうそぶくであろう御仁が
  日本には一人います。
   松本人志であります。
   
   というわけで「 『3.11』後にポストモダン作家を観る」、次回は松本人志「さや侍」を
  予定しております。

          (了)







  
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