素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

神代辰巳から望月六郎 VOL.1




   
   銀座シネパトスで「萩原健一(ショーケン)特集」をやっているというので出かけてみた。
   この日は、「青春の蹉跌」(74年)と「アフリカの光」(75年)の2本立てで、いずれも監督は
  神代辰巳(くましろ たつみ)です。

   現在、中堅からベテランに域にかかりつつある監督たちで神代辰巳の影響を受けている
  人は多い。私の身の回りにも神代ファンは少なくない。でも、私の場合、彼にストレートに
  感化されたというより相米慎二を通して神代の偉大さを知るという有様です。
  (故・今野雄二氏は、ブレイアン・デ・パルマを通してゴダールの天才を知る)
   何故、私が神代に前のめりでなかったかというと、まず挙げられることはセックスを描きな
  がらも少しもエロくなかったからであります。ベッドシーンで彼が振りつける「からみ」もさ
  ることながら、より本質的には彼がどちらかというと女性原理で濡れ場を撮っているからだと
  思うのです。それは女優・宮下順子の発言からも伺える。

    「クマ(神代)さんは、女がわかっていますね」
   
   男がエロいと感じるのは、実は男目線を中心に女性のエロティシズムを捉えている時だ。
   リアルな女性の性は別なところにある。かかる事態は女性たちのつぶやき、「男ってバカよ
  ね」に端的に現れている。(政治ブログから思いっきり逸脱しているぞ、とお思いの貴兄、
  ジェンダー思想、アンチ・ジェンダー思想ぬきで現代の政治は語れませんぞ!)
    
   次に指摘すべきは、私が好んだ空間把握と神代が真逆だったからです。
   私はフレーミングされたタイトな空間が好きであったが、神代は時にフレームなどおかまい
  なしでルノワール的に空間を捉えている。
   畢竟、映画における空間把握はフレーミングされた閉鎖的な空間把握かフレームから
  逸脱する開放的な空間把握しかないのです。このあたりで映画に対する趣味趣向が分か
  れるところです。
   (もっとも、私の趣向は過去のことであり、今やそんな二者択一的なものではない。)

   これが決定的なのだが、映画から諸要素を取りのぞいていったら究極、何が残るかとい
  う映画に対するスタンスがとどめをさす。神代の場合、最後に残るのは芝居(演技)であ
  るとするが、私の場合、芝居は芝居でも紙芝居、すなわち4コママンガのような写真だと
  考えている。因みに北野武も私と同じであります。

   もう一つけ加えて置きたいことは、世界に敬愛される映画監督は枚挙のいとまがないが、
  神代ほど愛された監督はいまいということです。奥田瑛二なぞ「クマさんを体の中に入れて
  おきたかったんだ」とか言って神代の遺骨の一部を食べてしまった。 ~ 骨まで愛して ~
   前置き長くなったが、各作品にふれてみよう。 (以下、ネタバレを含みます)




 〔青春の蹉跌〕

   本作は石川達三の文芸作品として東宝で製作されている。
   70年代安保が退潮し、「しらけ」などという言葉が流布していた時代、無力感とともに
  センチメンタルとメランコリーが支配した時代。そんな時代を背景として主人公・江藤賢一郎
  (萩原健一)は、企業家の伯父(高橋昌也)の援助を受けながら大学へ通っている。
   賢一郎はアメフト部で活躍しながら司法試験を目指している。
   もちろん、文武両道の“ 若大将 ”ではなく、かと言って新左翼などつき合う気もなく、
  特に将来に展望なぞなく、場当たり的な彼はこの時代を体現している。
   家庭教師のバイト先の教え子・登美子(桃井かおり)を身ごもらせたが、堕胎処理を求め
  て万事解決と思いきや、よくある話でそれはウソだった。何の展望もない賢一郎は、司法試
  験に合格するもさしたる感慨もなく、伯父の娘・康子(檀 ふみ)と結婚して「逆玉」に乗
  ることにする。別れを拒む登美子を捨てるわけでもなくぐだぐだ二人は・・・・・。
   ここで登美子をあっさり捨てれば、脚本・長谷川和彦の兄弟子、浦山桐郎の「私が棄てた
  女」だが、そんなベタなストリーではない。


                青春の蹉跌

   既に神代節に馴れ親しんだ私としては、やはり東宝製作の文芸作であり、前半は神代らし
  さがあまり出ていないように思われた。
   神代らしさ、神代節とは何か?
   動物が寝そべっているようにダラダラグダグダした人物。
   おんぶにだっこという具合にまともに人と人が対面しない、語り合わない。
   朝ドラ「カーネーション」のヒロイン、尾野真千子出演、河瀬直美監督「殯(もがり)の森」
  で認知症の主人公と茶畑(?)でかくれんぼうのようにじゃれている様はまさしく神代タッチ。
   本作の登場人物は、基本的に神代が今まで描いてきた人々にくらべずっと上品だから、
  そんなぐだぐだしたことはしない。ホコ天で「100円でええねん」と一目もはばからず、
  足元にまとわりつく芹 明香あたりが神代らしさだろう。

   多くの評者は70年代のアイコンで何度も共演したショーケン・桃井のコンビについて語る
  だろうが、私には、成城に住む良家の子女役、檀 ふみが新鮮だった。
   いわゆる「青春もの」でも、本作はエスタブリッシュメントが厳然と存在する世界を描いて
  いる。別にウマイとは思わないが、彼女は「良家の子女」を体現していた。
   いまやエスタブリッシュメントは怪しく、「セレブ」になってしまう。
   NHK夜ドラ「カレ、夫、男友達」の三姉妹は実家が「千代田区番町」であります。
   つまり、昔ならエスタブリッシュメントの家柄だが、演じる3女優は誰一人、両家の子女に
  見えない。(かろうじて夏帆くらいか)いや、そう見えなくてもいいのだ、現代のエスタブ
  リッシュメントは壊れている。

   もう一つの神代節、有名なアフレコによる「エンヤトット♪」に関して私は深読みしない。
   神代も演出した「傷天」(傷だらけの天使)でショーケン演じる小暮修がくちずさむ
  「たまらん♪たまらん♪」同様、即興演出だと思う。

   東宝製作の文芸作でセーブ気味の神代節は、終盤、雪山をショーケンと桃井がズルズル
  と滑り落ちるシークエンスで炸裂する。この一連のシークエンスは今みても鮮烈だと思う。

   ラストシーンについて詮索されているが、私は単にアンチ「予定調和」を狙っただけだと
  考える。この時代、まだ「予定調和」が若手映画人から忌避された時代だったろうと思う。

                                 (つづく)


 
傷だらけの天使
俺達世代でこれを観ていない人とは
お酒飲みたくないな。
ロケ地、エンジェルビルは今も健在。









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