素晴らしき放浪者の戯言

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歌うクジラ 後編(その2)

   本作で素晴らしいのは、メモリアックが出てくる場面だろう。
   「五分後の世界」の名高い戦闘場面の「描写」すら凌駕する。
   視覚、聴覚、嗅覚等の感覚の意識化・混濁と時制、状況とのスクラッチ、ノイズはリミック
  スされた音楽を聞いているようだ。
   もはや活字による「描写」の臨界点に達しているのではないかと思われるほどの出来ば
  えだ。前回、引用した部分は比較的シンプルな方で処女作「限りなく透明に近いブルー」
  からずっと続く村上 龍タッチの発展形であろう。

   「隔離施設」の倒錯的ステージや「36号棟F」のヨシマツとの対決ではメモリアック
  はさらに・・・・・。
   ネタバレ前提とはいえ、これ以上は止めておこう。
   メモリアックの「描写」があるからステレオタイプという関所を突破できると言いたいわけ
  ではない。メモリアックは通行手形の書体に過ぎないのだ。
   
   思うに処女作「限りなく透明に近いブルー」からの一連の諸作は本作を書くために存在
  したのではないか。メモリアックによるリミックスミュージックのみならず旧作の諸要素
  が本作には投入されさらにリミックスされる。
   ステレオタイプについて論じながら、紋切り型の言説だが、作家は処女作に向かって
  成熟する。一連の作品群の中でも処女作「限りなく透明に近いブルー」は本作とはまるで
  違うようでも、今からふり返るに本作を書くために34年前に書かれなければならなかった
  小説のように思えてならない。

   確かに「ビートニクス ⇒ ドラッグカルチャー ⇒ サイバーパンク」はそれこそ紋切型
  の作家の系譜であろう。
   でも、村上 龍は表現手段の一つとしてサイバーパンクをとり入れたわけではなく、
  どうしてもそうならざるを得なかった。そう思えてならない。なんとなれば、主題論はと
  もかく説話論としてサイバーパンクの萌芽は「限りなく透明に近いブルー」の中に既に
  あるのだから。
   だから「限りなく透明に近いブルー」は本作の34年前に書かれなけらばならなかった
  のであります。「2001年 宇宙の旅」でボーマン船長が到着するはるか以前(人類
  誕生以前)より月面にモノリスが存在したように。
   換言するなら、「限りなく透明に近いブルー」は湖の中の離れ小島の梵鐘のような
  ものに思える。その梵鐘から放たれる音は湖=村上 龍作品群に同心円上の波紋を
  残してきたと考えられる。 

   予定説にも似たこの必然性、正統性こそステレオタイプという関所を突破する通行
  手形なのであります。

               (「最終回」につづく)



歌うクジラ 上歌うクジラ 下
「2022年のクリスマスイブ、ハワイの海底で、グレゴリオ聖歌を正確に繰り返し歌う
 ザトウクジラが発見された」というみんなが知る村上 龍印の一節だが実は・・・。
 







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