素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「3.11」後にポストモダン作家を観る 2  「僕達急行」の巻 前編

   
   随分とあいてしまったがポストモダン作家といったら、昨年末、逝去された森田芳光を忘れ
  るわけにはいかない。
   遺作となった「僕達急行」を千葉の映画館で観る。
   評判がよろしくないことは承知していたが、休日だというのにパラパラと人影もまばらで、
  1割程度しか座席は埋まっていない。

   そもそも、何でこのシリーズを始めたか述べましょう。
   ポストモダン作家が輝いていた時代はとっくの昔に終わってしまったが、それでも彼らは
  作家としてサバイバルしていかなくてはならない。別に彼らだけではないのだが、「大きな
  物語」の喪失を全く意に介さず、開き直って瑣末な「日常」と戯れた彼らであるが、「3.11」
  後にはいやでも「大きな物語」に対峙しなくてはならない。我々、観客だって同様だ。
   いや、そんなことおかまいなしだ、どこまでも瑣末な「日常」と戯れながら、上滑りしていく
  と言うなら、それなりの「技」と「芸」を見せてもらわなけらばならぬ。
   一方、今まで散々、瑣末な「日常」と戯れてきながら、「大きな物語」の影くらい踏まない
  と宗旨替えししても後ろ指したりはしない。
   どちらでもいい、のっぺりとした顔して表玄関からヒューマニズムを招き入れ、裏口からニ
  ヒリズムを誘い込む詐術だけは止めてくれと言いたい。


   さて、前置きが少し長くなってしまったが、森田監督は“ オタクの暴走 ”とも言われ
  たポスト「ポストモダン」を彼流のソフィスティケーションで既に描いている。
   それが「間宮兄弟」だろう。
   (実は私は「間宮兄弟」を観ていない。「39刑法第39条」を最後に森田作品とは御無沙
    汰です。この機会に「間宮兄弟」を観ないといけない)

   80年代、自称「流行作家」であった森田芳光も「間宮兄弟」より前に、UP TO
  DATEであることを諦めたと思われる。
   そうするとやることは多くのポストモダン作家同様、リメイクに自身の作家としての発露
  を見出すか、円熟を醸しだすかということになる。
   「阿修羅のごとく」、「椿三十郎」―― どちらも観ていないし、今後も観ないだろう。
   「阿修羅のごとく」は彼の手腕が評価されているようだが、毒気のない「阿修羅のごとく」
  など触手が伸びない。

   「僕達急行」に戻ると、オタクの王道「鉄っちゃん」二人を主人公に据え、「間宮兄弟」で
  ポスト「ポストモダン」にケリをつけたはずの森田は何がやりたいのかと思案する前に、
  やはりミスキャストだと思わざるを得ない。松山ケンイチと瑛太が女に縁のないオタクやって
  も、少しも説得力がない。だって、二人とも小雪、木村カエラという人が羨むような女性を
  妻にしているではないか!
   松山ケンイチはやらせればもっと出来るはずのに・・・。
   それこそ「間宮兄弟」の佐々木蔵之介、塚地武雅のデコボココンビで本作をやったらグッと
  面白くなっただろう。

   主人公二人はフラットにしてギミックな味つけしていくのだが上滑りして喜劇なのにどう
  も笑えない。そもそも松山と瑛太が出会った時点でもうオチは見えてしまった。
   要するに本作は「釣りバカ日誌」のようなサラリーマンものなのであります。
   森田節がふりかけられていますが釣りが鉄道に変わっただけです。
   でも、「釣りバカ」と決定的に違うのは松山・瑛太のコンビと西田敏行・三国連太郎
  のコンビの「芸」の違いであります。このような小市民のフラットな「日常」こそ役者
  の力量が問われるのです。
 
   どうも空回りの「僕達急行」の車輪はピエール瀧の登場でようやく動き出す。

   正直、この二人より、ピエール瀧の方が「役者」です。
   
                                    (つづく)

の・ようなもの
 デビュー作。冴えていた。
 でも、「3.11」後、今日の若い衆が
 これを観たらどう思うか気になる。





   
     
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