素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

歪められた歴史 弐 東武皇帝(後編)


   
   徳川幕府のりーサルウエポンたる、輪王寺宮能久親王は、主に日光宮と知られたが、
  公現(くげん)法親王、東武皇帝、最後は北白川宮能久親王とその名は変遷した。

   日光宮は弘化4年(1847年)、伏見宮邦家親王の第九皇子として生まれた。
   安政5年(1858年)、輪王寺慈性入道法親王付弟となった。
   得度の時の授戒師は兄の青蓮院宮尊融親王で、後に皇位を望み「魔王」といわれた
  「中川宮」でありました。慶応3年(1867年)5月に勅命で輪王寺門蹟を相続し、
  天台座主、日光東照宮の別当職を継いだのは、20歳の時であった。
   やはり幕末維新の時代でありまして若き日光宮でありましたが、すこぶる行動派
  であって、6日間かけて東征大総督・有栖川宮樽仁(たるひと)親王をはじめ総督府
  参議や西郷隆盛らと面談し、命がけで徳川慶喜の助命嘆願している。


   追いつめられた会津藩を救済すべく奥羽越列藩同盟が成立する。
   奥羽越列藩同盟ができて間もない5月15日、江戸では彰義隊と官軍の戦いが始ま
  り、わずか10数時間で雌雄が決せられた。
   日光宮は午後2時過ぎ上野を脱出し、下尾久村の農家、浅草合羽橋の薬王院東光院、
  市ヶ谷の自証院と移り、25日、軍艦・長鯨丸に乗船してことなきを得た。
   (このあたり教科書は、日光宮のニの字も記述していない。)
   
   正史では日光宮(輪王寺親王)を擁立したのはあたかも成り行きであるがごとく
  だが、日光宮を頂くことは家康・天海によってプログラミングされた徳川幕府の
  最終兵器だったのです。

   それ故、官軍は日光宮を捕縛せんとし、彰義隊は何としても日光宮を守り逃す必要が
  あったわけであります。
   奥羽越列藩同盟にしても徳川家に忠節を尽くしたというより日光宮を“ 玉 ”として
  頂くことによって可能だったと考えます。官軍もそれらは先刻承知で上野で日光宮を
  拘束してしまえば、彼らの求心力はそがれると考えていただろう。
   25日、日光宮が軍艦で逃れる少し前の21日、仙台候はこう述べている。

    「皇国を維持する思いはいままで申し聞かせたとおりであるが、このたび、
     日光宮様は奸徒が朝権を盗み大政を乱し海内をかきまわし、万民をきわめて
     苦しめていることに深く御哀悼をあらわにされ、渦乱を排除し皇国を平和
     にさせられたく申しめされて決意され、厚く御依頼されたので、このたび
     賊徒追討のため出陣する」

          ~ 「天皇の伝説」 副島隆彦を囲む会 発行・発売 ~ 
  

   17日、市ヶ谷、自証院に日光宮が移られてから、21日までに仙台候のもとに早馬で
  日光宮の安否と共に御意志が伝えられたのだろう。
   ここで注目したいのはこの一節だ。
  
  「奸徒が朝権を盗み大政を乱し海内をかきまわし、万民をきわめて苦しめている」    

   正史(教科書)的には、「奸徒が朝権を盗み」は旧幕府側から見た決まり文句のように
  捉えていると思われる。果たしてそうだろうか?
   孝明天皇暗殺説は当時から噂されていたし、孝明天皇と昵懇(じっこん)であった14代
  将軍・家茂の死について天璋院篤姫は暗殺説を信じて疑わず、明治になっても言い聞かせ
  ていたという。孝明天皇暗殺は岩倉具視の手引きで下忍(=下層の忍者)たる伊藤俊輔
  (博文)配下の者、若しくは伊藤自らの手で実行されたと言われる。
   もしかしたら、日光宮はこのあたりの事情を聞きつけていたのではないだろうか?
   そうすると「奸徒が朝権を盗み」は決まり文句ではなく顔面どおりの言葉だったといえ
  よう。

   日光宮は軍艦・長鯨丸に乗船した際、こう書置きしていると言われる。

    「過日思わぬ敗戦をえて、君臣離散し悲嘆涙を流すこと泉のごとしである。
     いま、我は孤独にしてここに埋伏し、ただ開運のときを待っていた。 
     しかし幸いにして今日、時を得て軍艦にて海上万里を片時に走り奥羽に
     脱して、まもなく錦旗を晴天に飄し、仇討ちし恥辱をそそぎすみやかに
     仏敵、朝敵を退治したいと思う。群臣みな埋伏し必ず身命をまもり、必ず
     や身命を全うせよ。きっと再会のときがある」 

               ~ 引用 同上 ~


   「錦旗を晴天に飄(ひるがえ)す」とは官軍が錦の御旗なら、こちらも錦の御旗だと
  いう意思の現れとみた。(官軍はこちらで、お前らは奸軍だという気概だろう。)
   この「錦旗」は東照宮御神体とともに日光山に所蔵していた「錦旗」のことだと言われる。
   「戊辰戦争」は官軍と旧幕府軍の戦いではなかったのだ。
   錦の御旗 VS 錦の御旗の戦いだったのであります。
   

   確かに「明治維新」は世界が刮目する成果を収めたが、彼らが政権奪取の
  ために朝廷に何をしてきたのか、その “ 闇 ”はおおい隠された。

   そのためには、官軍(維新軍) VS 旧幕府軍(旧勢力)という図式で歴史が語られな
  ければならなかった。「東武皇帝」は教科書に載せてはいけないことになるのだ。
   以前にも述べたように、大日本帝国時代、幕末・明治維新の歴史は歪められた。
   これを暴こうとするものは弾圧され、この流れは敗戦まで続いた。
   「東武皇帝」が示唆されるには、昭和25年、滝川政次郎著「日本史解禁」まで待た
  なければならなかった。
   (もっとも、能久親王については森 鴎外が「能久親王事蹟」でふれているが)
   
   勝てば官軍とはよく言ったものだ。    
   もう官軍という言葉は明治維新史及び維新時代小説から削除すべきではないか。

   「正しい歴史教科書」と声高に叫ぶ御仁こそ、この歪められた歴史観の信仰者で
  あるように思える。

                (了)





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