素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

おんりーいえすたでー Part Ⅳ 「ウォーク・ドント・ラン」 (前編)

   
   「おんりーいえすたでえー」はPARTⅡの続編もまだ書いていないのだが、先にPART
  Ⅲ、Ⅳとなってしまった。

   相変わらずの猛暑だが、学生的にいうと夏休みももう終わりだ。
   この時期、「夏休みの宿題、課題やっていない、どうしよう」と焦り出す頃です。
   学生時代なぞはるか昔のことだが、体のどこかにそんな焦燥感がトラウマのように残って
  いるのだろうか?「何か忘れてはいないか」、ふとそんな思いに捉われていたりする。
   そんな時、思い出したのがこの一冊だ。
   村上 龍と村上 春樹の数少ない対談集。
   初版は1981年7月20日、実際の対談は80年に行われている。   
   当時、村上 龍は第3作「コインロッカー・ベイビーズ」を発表し、村上 春樹は、
  「1973年のピンボール」は上梓したが、「ノルウェーの森」はおろか「羊をめぐる
  冒険」も「世界の終わりと世紀末ワンダーランド」もまだ発表していない。

   今から30数年前、若かりし頃の二人は何を考えていたのだろうか?



  ◎ 二人とも異色の作家

   今では二人とも日本を代表する作家でありますが、当時は共に異色の作家でした。
   両者の「文芸書は読まない」という発言に端的なように二人とも戦後日本文学のメイン
  ストリームから外れている。
   二人とも「日本語を守りたい」なんて口が裂けても言わないタイプの属する。
   (こんなこと言うのはいまでは辻 仁成くらいか)
     
   トルーマン・カポーティー、スコット・フイッツジェラルド、レイモンド・チャンドラー等々、
  徹底的に海外文学の影響下にある村上春樹はあっさりこう告白する。

    春樹  (前略)日本語の小説をあまり読んでないせいがあると思うのね。
        最近読んでのは村上龍氏のしかない(笑い)。それでね、言葉が、
        使い方がわからないんですよ、日本の小説の言葉の使い方という
        のが。(中略)でも、谷崎を集中的に読むかっていうと、そうじゃ
        ないんです。いまでに谷崎で読んでものっていうと「細雪」だけ。
        でも、マルケスとかジョン・アービングだとか、オルグレンだとか、
        何でもいいのだけど海外のピンくる小説読むと、どんどん読み進み
        たいって気がするわけですよ。(後略)

            ~ 「ウォーク・ドント・ラン」 p122 ~
        
  
   さらにこう付言する。

    春樹  それから夏目漱石なんかわりに読みすいような気がするよ。
        あの人は、英語をやってたんでしょう。英文学。だから何となくね、
        眺めていると日本語じゃないような気がするんですよね、使われて
        いる言葉は古いけど。いつかまとめて読んでみたいと思いますね。
        好きになれそうな気がする。
        ところで太宰治って読みましたか。

    龍   太宰はね、読みましたよ、ぼく、「斜陽」とかね、それから「トカトントン」
        というの。

    春樹  ぼくは、高校の教科書に「走れメロス」って、あれしか読んでないのね。

                            ~ 同書 p125 ~
 
   
   おそらく太宰は読んでいないと思ったが、春樹さんから夏目漱石に関して「いつかまとめ
  て読んでみたい」というセリフが吐かれようとは夢にも思わなかった。
   高校生で図書館にあるフィクション(小説)はほとんど読んでしまった春樹さんだが、
  そのリストから日本文学はきれいに除かれ、徹頭徹尾、海外文学で育ったのでしょう。
   
   一方の龍さんからもジェン・ジェネやらセリーヌは出てくるのですが、同様に日本の
  作家の名はほとんど出てきません。

   いやいや、そんなことはこの際、たいしたことではないのです。
   この一言は「日本語を守りたい」的文壇のメインストリームの作家たちにとって衝撃的
  ですらあるだろう。

   龍   ぼくが言葉なんか意味がないと思ったのは、高校3年生だった。

   文芸に疎い私が村上 龍を読んできた理由はこの発言に集約されるかもしれない。
   私は大学1年生の頃、「言葉なんか全部ウソだ」と考えていた。
   そういう経緯から写真家・中平卓馬にひかれていくのだった。

   さて、春樹さんも同様に言葉に懐疑的だ。
  
    春樹  (前略)あたり前の話だけど、英語を読むってのは日本語で読むのと
        ぜんぜんちがうのね。つまり、言葉じゃなくて、記号で書かれた小説
        を読んでいるような気がするわけ。だから、ぼくも言葉じゃなくて
        記号で小説書けるんじゃないかな、と思った。言葉に対する不信感も、
        記号で書いちゃえばなくなるわけでしょう。

                          ~ 同書 p25 ~


   「言葉」というのは正確ではなく、両者ともに「日本語」に懐疑的だったのだ。
   二人とも「日本語の美しさ」とか「日本語を守る」からは決定的に隔絶した作家であります。
   このあたり私は深く共感する、いやしていた。
   つまり、過去のことであり今やチト違うのです。

   ある文芸評論家は「日本語はペラい」と言います。
   「ペラい」、すなわち薄ぺらで平面的ということです。
   確かにその通りですが、「ペラい」からこそおもしろいのではないかと近年考えるのです。
   もう一人の村上、村上 隆氏は浮世絵や伊藤若冲から自身の作品までを「スパーフラッ
  ト」などと言って称揚します。フラットなのは言葉や美術だけでなく、日本文化を貫く重要な
  キーワードです。服飾だって、裃(かみしも)はもとより洋服でも西洋は立体裁断・立体縫
  製が当たり前ですが、日本では必ずしもそうではありません。
   立体的でなく厚みがなく「ペラい」から日本のものはダメ?果たしてそうでしょうか?
   時として「ペラい」から逆に凄いのだと思います。
 
   日本語(言葉)に関する不信感は二人とも共有してましたが、その後の展開は正反対
  です。
   村上 龍は「ペラい」ことを嫌い、これでもかと言わんばかりの情報量で立体的描写を
  試みます。一方、村上 春樹はどこまで意識的だったかは定かでありませんが、「ペラい」
  ことの「凱旋歌」を謳います。「海辺のカフカ」におけるあの「ジョニーウォーカーさん」
  はどう考えても私には「ペラい」存在です。それまでも試みられていた記号化された存在の
  究極形のように思えます。どうしても3次元というより限りなく2次元の存在で、舞台の
  書割のように薄っぺらに見えます。しかし・・・やっていることは幻想譚であろうと凄まじい
  でありあます。凄まじいことを紙っぺらのような存在に何ら意に介することなく軽々とやら 
  せる村上 春樹の描写は天下逸品だと思います。
 
   二人とも言葉(日本語)に対する不信感から思わぬところへ辿りつきました。
   


   

  ◎ タイムカプセルに封印した意識
   
   初期、村上 春樹は現実にコミットしない作家と認識されていました。
   80年代、そのポストモダンなスタンス、ゲームとは別種の遊戯性は心地よかった。
   そうは言っても彼は新左翼に片足いや両足を突っ込んだであって、何にも知らないバカ学
 生の私とは違っていたのだ。 
   この本には「現実にコミットしない」とされた村上春樹の別の側面が伺える。

    春樹  (前略)ぼくはね、時代はこれからどんどん、どんどん悪くなっていくと
        思うのですよね、絶対によくはならないと思う。で、どちらでもさ、崩壊
        というのをいちばん問題にしたいわけだけれど、必ず崩壊はくると思うのね。
        経済的にも精神的にも。そこで小説がどう生き残っていけるかというのが
        やっぱり問題だと思うのですよ。崩壊をしっかり見届け、精神の再興にはた
        して小説が寄与できるかといった、角川文庫のことば風なね。

                           ~ 同書 p143 ~
  
   
   さらにエルサレム賞受賞の時のあの「壁と卵」を予見させるのが次に1節だ。
 
    春樹  日本のいまの状況で僕がいちばんひっかかっているのは、パワーに対する
        志向なんですよ。政治的にも、文学的にもね。まあ日本だけの問題じゃない
        のかもしれないけど。結局ね、状況が多様化すればするほど包括されたいって
        意識はあると思うわけです。それがある種の父性的なパワー志向に傾いていく
        ようなね。
               (中略)

        だから国家だとか権威だとかといったある力を持った存在に極端に反応しちゃう
        のかもしれない。裏切られつづけてきたからさ。文学的権威というのも嫌だね。

                      ~ 同書 p131、p133 ~


   この思惟は、「壁と卵」を経て「1Q84」ではっきりと現れる。
   もっとも、この後しばらくは「現実へのコミットメント」はタイムカプセルに封印され
  「ビッグブラザーの出る幕はない」と誰もがつぶやく呑気な80年代を村上 春樹は過ごす
  ことになるのであります。

                  (つづく)








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