素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

「 SNS新・新左翼 」 でもなくネトウヨでもなく

   



   ブログしかやらない私としては、政治経済分野のブログは断然、保守系が多く、ネトウヨも
  相当数を占めると実感している。
   そんなにSNSは「新・新左翼」一色なのだろうかと不思議だ。
   この疑問は置くとしてSAPIO 11月号は「SNS新・新左翼」に続き脱原発についても記
  事にしている。
   題して、

    「SNSが大量動員した脱原発デモで露呈した『 気分としての反体制 』の弱さ」

   この記事は、官邸前脱原発デモにSNSが果たした役割の大きさを書き連ねながら、所詮
  “ 気分 ”としての反体制なので覚め易い、今やかつての勢いはないとしている。
   前回述べた「いい人にならなきゃ」圧力がSNSでは溢れているが、同時に脱原発な自分
  をセルフブランディングしていると記事を締めくくっている。
   ほぼこの記事のとおりであるが、一点引っかかるのであります。
   「反体制」という言葉でこの脱原発デモが括られているからです。
   果たしてそうだろうか?
   別に「反体制」な人々だけがこのデモに参集したわけではないと思う。
   「いい加減ししてくれ!今こそ原発を止めてくれ!」
   単純にそう思っているだけの人々の方が多いのではないか?
   いや、脱原発 = 反体制( ⇒ 左翼)でくくるのはチトずれてはいないか?
   脱原発右翼もいるのだから。

   それに三島由紀夫が東大で講演した際、「一言、君達(左翼)が天皇と言ってくれたら
  手を組むことが出来る」と言ったことに象徴的なように右翼と左翼は必ずしも対立する
  ものではない。
   明治時代、右翼と左翼は時に手を結んだ。
   なぜなら、当時の左翼はマルクスではなくルソーに奉じていたのだから。
   両者が対立するのは左翼がマルクスを理論的支柱としてからだ。
   当時「保守」という言葉があったかどうか知らんが、藩閥政治(体制)に意義申し立て
  するのが右翼や左翼だったのだろう。


   さて、SAPIOが掲げる「保守」、「リベラル」、「現実主義」、「理想主義」のマトリックスの
  中で私の立ち位置はどのあたりだろうか?
   どちらかと言うと「保守」にふれているのだろうが、決して「現実主義」にはふれていない。
   別に「理想」を語っているつもりはないのだが、何せ「放浪者」が書いていることから
  たぶんに浮世ばなれしているだろう。とりあえず、「保守」と(反・現実主義という意味で)
  「理想主義」のグラデーションの濃いマトリックスに私は存しているとしよう。
   このマトリックスに位置する人は取り上げられた論客50人のうちほとんどいない。
   「保守」といえば「現実主義」を標榜するのが常道のごとくであります。

    保守的であるとは、見知らぬものより慣れ親しんだものを好むこと、試みられた
    ことのないものより試みられたものを、神秘よりも事実を、可能なものより現実
    のものを、無制限なものより限度あるものを、遠いものより近いものを、あり余
    るものより足りるだけのものを、完璧なものより重宝なものを、理想郷における
    至福よりも現在の笑いを、好むことである。

                    ~ マイケル・オークショット ~


   ここで「現実主義」の「現実」なるのもを考えてみたい。
   「現実」というからには「今、現に起きている事態」に軸足を置いているわけだが、この
  「今」が歴史の中の「現在」でなければならず、「同時代」であってはならないのだ。
   「歴史の中の現在」と言う時、過去の歴史からのアプローチが主なものになるだろう。
   でも、それは平時の時であって「大転換期」には「未来」からの「現在」も考えなければ
  ならない。(もっとも、その前に「今」が「大転換期」にあるとはっきり認識しないといけ
  ない。)
  
   私は日本の保守の言う「現実」はすなわち、過去の歴史からの「現在」に拘泥し過ぎる
  と考える。自らを「現実主義者」と任じていても、この大転換期、その御仁の捉える「現在」
  はリアルな「現在」とは座標軸がずれているように思うのです。
   「未来」は予測不可能なものとして排除されがちだ。繰り返すが、世界を動かす人々は
  我々が想像する以上に「予定調和」に支配されている。決められた未来に向かって様々な
  アジェンダが作られると言っても過言ではない。
   これが日本の保守の唱える「現実主義」に私が与しない理由その一なのです。
 
   彼らの唱える「現実主義」に与しないもう一つの理由は、仮に過去から捉えた「現実」
  (現在)だけ考慮するとしても、その現実がホントにリアルな現実なのかと言うことで
  あります。メディアが発達する前はこんなことを考える必要はなかった。
   今や世界の隅々から情報入手できるが、同時に世界中から工作、ガセネタが発信されて
  いるのであります。リアルな「現実」を国内メディアだけから捉えることは困難だと考え
  ます。(ここに取り上げられた論客は普通の人より多くの情報源を持っているようだが、
  それでも難しいと思います。)

    え~い、めんどくさい、はっきり言ってしまいましょう。

   彼らが「現実」と思っているものが実はマトリックスの世界のことだったりしないか。
   一瞬でも「ザイオン」を垣間見たことがあるのかいな。
   
   SAPIOのマトリックスは「現実」の対立概念が「理想」としていますが、私の場合、
  「理想」ではなくて「真相」(深層)なのであります。

   今回のSAPIOの冒頭記事「ニッポンの覚悟」のイの一番の寄稿者は中曽根 “ 大勲位 ”
  康弘であり、「『 橋下総理 』の器を問う」という記事に15頁も割いている。
   SAPIOの言う「現実」とは中曽根、大前研一、橋下 徹の各氏が構成要員であります。
   例え、「現実」がそうであろうと真相(深層)追求者は彼らを是認するわけにはいかない。

   SNSは知らんが、ブログでは保守(ネトウヨも含む)が大勢を占めると共に、真相(深層)
  追求者のブログが有力なのではないか。
   これら真相(深層)追求者が件のマトリックスからすっぽり抜け落ちている。
   これはSNS、すなわちネットに関して述べていながら電通による既存メディア支配を
  如実に物語っている。

   SNS新・新左翼でもなくネトウヨでもなく、真相(深層)追求者が「陰謀論者」と呼ばれ
  なくなる日が「革命」が成就する時だと私は考える。









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