素晴らしき放浪者の戯言

100年に1度の世界の大転換、50年に1度の日本の政権交代を見届けるブログです。 政治、経済、メディア、都市、映画etcの各分野を放浪しつつ 時たま核心に迫ります。

コンプライアンスの時代に「義理と人情」を考える 後編 

   
   コンプライアンスが非効率、日本人の心性と相いれないことについて述べた。
   それではまだ「そうは言っても・・・・」は説明しきれない。
   ここはもう一つ大きく鳥瞰してみよう。

   「規制緩和」は「Deregulation」の和訳と言われる。
   「Deregulation」の正確な和訳は、「規制緩和」ではなく「規制撤廃」であることは周知のこと
  です。グンドキャニオンの崖の柵を減らすのではなく、すべてとっぱらって足をすべらせて
  転落死するかしないか「自己責任」でヨロシクね、ということです。
   一昔前、「規制緩和」は本来の意味が粉飾されたマジックワードとして流布し、新自由主義
  者の“ 錦の御旗 ”とされた。
   これまたマジックワードである「投資家の利益」も “ 葵の御紋 ”として一世風靡した。
   「投資家の利益」と言っても個人投資家などどうでもよくて「機関投資家の利益」、外資が 
  大株主の現在、彼ら「外資機関投資家の利益」といった方が正確だろう。
   資本主義のだから投資家の利益を図るのは当然だ。
   そうかもしれないが、投資家を儲けさせた米国のCEOら報酬の増大ぶりは何とした
  ことだ。

   これらの事態は「格差社会」として語られる。
   世界一成功した社会主義国・日本、1億総中流社会だった日本に広がるこの「格差」は耳
  目の注目を集めた。「格差社会」は「規制緩和」同様に粉飾されたフレーズだと今や言わざ
  るを得ない。
   「新しい階級社会の前段階」とした方が正確だ。
   世界中で階級社会だった時代の方がはるかに長いのだから元に戻るだけだ。
   日本だって「士農工商」の身分(階級)社会だったし、明治も戦前も「皇族、華族、士族、
  平民」の階級社会だった。
   でも、来るべき新たな「階級社会」はこれらのどれよりも苛烈だと考える。
   このような事態を予感してからか、血も涙もない弱肉強食の時代とか言う文脈で「人情」
  が語られるかもしれない。
   かつての日本もはっきりとした階級(身分)社会だったが、間違いなく人情というも
  のが存在した。もちろん、人情など通じない場面も少なくなかったが、人情が通じる
  集合体としてのアジールが「世間」であったと思う。

   
   このアジールとしての「世間」を切り刻んでいくのが「法の支配」と唱えるNWOファシズム
  であろう。チト走りすぎか、NWOファシズムとは言わなくても情理の世界が完全に消え失せ
  たら「世間」は雲散霧消する。かと言って「市民社会」など日本には生まれないと考える。
   そこには砂粒のような個、ビッグブラザーを忌避しつつも同時に待望する羊の群れだけが
  存在する。

   経済がアジールとしての「世間」を切り刻むのは容易に想像できるだろう。
   NWOファシズムの「法の支配」に端を発するコンプラインス体質にどっぷり浸りきれば、
  その逆、法律の悪用も身近になるでしょう。その代表例が「人権委員会設置法」で語られる
  人権利権です。
   そこには恥も外聞も人情もないのであって「日本人の心性」とは程遠い。


   話は変わるが少し前、私は「関の弥太っぺ」という映画を観た。
   このブログにアップするつもりはなかったが、本稿の内容を補完するものなので取り上げ
  よう。

   本作は原作・長谷川伸、主演・中村錦之介、監督・山下耕作の東映股旅映画です。
   ネタばれしない程度にいえば、「足長おじさん」もどきのストーリーであります。
   人様は何と言うか知りませんが、この映画、男の生き意地についての映画だと思います。  
   そう(生き)意地、プライドでも矜持でも表現しきれない男の生き意地。
   侍だけが矜持、生き意地があるようですが、昔(時代劇の世界)は、渡世人は渡世人の、
  商人(あきんど)は商人の、職人は職人の、芸者は芸者の、女郎は女郎の生き意地が
  あったと思うのです。
   人情といっても今のうすら甘いヒューマニズムの世界ではありません。
   人情は同時にある種の厳しさを伴います。
   その厳しさが義理であり生き意地です。

   現代ではこの生き意地はほぼ絶滅状態で、かろうじて「職人気質」というものが残って
  いる程度でしょう。
   弥太郎(錦之介)の弟分・森介(木村功)が軽く弥太郎を裏切る、いや、出来心起こす
  のですが、現代人は99%、少なくても90%が森介と同じでしょう。弥太郎みたいに振舞う
  ことの出来る人はほんの僅かだと思います。
   現代人は意地などどっかに行ってしまって、権利(債権)を優先させるのが当たり前だか
  らです。
   弥太郎は渡世人の生き意地、本文を貫いたのです。

   本作が作られた63年から時代が下るにつれ、「弥太郎なんかウソだ、森介がリアルだ」
   となっていき、任侠映画は衰退し「仁義なき戦い」が作られる。その後はご存じのとおり
   であります。それもいくところまで行ったように思われます。

   21世紀の日本人に長谷川 伸の人情ものなど古いよ!
   今から10年前なら私もそう思っていました。いや5年前でも同じでしょう。
   果たしてそうなのでしょうか?
   
   弥太郎とお小夜(十朱幸代)のむくげの花越しのシーンは、日本映画史に残る名シーン
  とか言われます。
   映画的にはたいしたことは何もやっていないのですが、私は思わず目頭が熱くなりま
  した。
   オヤジたちが鼻をすする音が場内に響いていました。
   このシーンは石原慎太郎がその昔、大相撲の八百長を指弾した際、先輩作家・舟橋聖一
  から「石原君、日本人には人情というものがあるのだよ」と諭されたエピソードを想起させ
  ます。つまり、「言わぬが花」ということ。 

   石原慎太郎、舟橋聖一の件は聞いた時、「そんなことあるもんか!八百長は八百長だ!」
  と思ったものでした。今でも熟考すれば難しい問題ですが、舟橋聖一氏の云う「人情」の
  意味も十分説得的だと思います。
   「言わぬが花」ばかり口にする政治家、マスゴミを見るにつけそう思う昨今です。

   小屋を後にした私は目尻の涙を拭きつつ平成の世に引き戻される。
   道行く人にこの映画について語っても「フーン、それが」と言うのがおちだ。
   「向こう岸は悪魔教という河の淵に立った五十男の胸にしみる人情と生き意地の世界、
    お前さんたちにわかるのかい?」 
   と縞のかっぱに三度笠をかぶり長ドス差した私はつぶやくのでした。
 
  
   世間」という中間組織がなくなり、砂つぶのような個が権力に隷属する世界は、
  「修羅の世界」でしょう。
   この「修羅の世界」こそ悪魔教の連中が望むところです。


   それでも「そうは言っても・・・」はまだ続くのです。

   コンプライアンスと「日本人の心性」がいかに齟齬(そご)するかその一例を述べて
  みました。一言でいうなら、コンプライアンスは粋(いき)じゃない、野暮そのものだと
  いうことです。 
   さりながら、現代資本主義の中で生きていくには企業法務としてのコンプライアンスは
  避けてとおれません。
   コンプライアンスはデ・ジュール・スタンダードそのものです。
   繰り返しますが、日本がデ・ジュールスタンダードの決定権を握ることはないでしょう。
   だからどうにもならない、これが世間一般の共通認識だと思います。
   
   それでも何とかしないなら、臭い匂いは元から絶つしかない。
   NWOファシストが「100年に1度の大転換」により敗北し、「愛国者法」、「リアルID法」 
  「食品安全近代化法」、これらすべてが廃止される日を待つしかない。
 
   政治家は法律をつくるのが仕事だとされるが、それは当たり前で悪法を廃止する政治家
  が一番、エライという評価を我々が与えなければならない。
   そのためにはかかる悪法をメディアが報道しなければならないのだが・・・・。
   在京メディアには全く期待できない。

   橋下 徹氏は「人権委員会設置法案」容認(推進)であるから彼には期待できないが、
  橋下に代わる人物がアンチ「在京メデイィア」のスタンスで大阪から発信してくれることを
  とりあえずは期待しよう。
                  (了)


   




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